ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

愚図で無能な私は臆面もなく書き連ねます。

許容することを取っ掛かりに考えます。


f:id:uenokoeda:20170118221653j:image
 

履歴書をせっせと書いています。

しかし、どうにも「やりたい!」と熱意が出ないのでいい加減になります。

特に志望動機は今の私にはないので、何も書けずにただただ困り果てています。

それでも仕事を探さなくてはならないので、黙々と書きます。

 

仕事は「やりたい!」と感じなければならない、と考えてました。

仕事のやりがいがなければ、叱られた時や失敗した時に立ち直れないから。

しかし、今の私には「やりたい!」と感じる仕事がありません。

なら、仕事にどう向き合えば良いのか?気持ちが塞ぐような錯覚します。

 

今まで頑張らなかったから、頑張り方がよく分からないのです。

丹田から力が抜けていくような踏ん張りの利かなさがあります。

望んで下らない人生を歩んできた、それだけなのですが、急に虚しさで胸に込み上げてきます。

怠けたツケの多さに愕然として、支払える気がしません。

 

もう、何もかもが面倒です。

何もかもが面倒で、最悪です。

なら、何ができるのか?のたうち回るしかないでしょう。

岸に釣り上げられた真鯉のようにその場でみっともなく暴れるだけしかできそうにありません。

 

愚図で無能な私は臆面もなく書き連ねます。

 

ニュースで「生活保護なめんな」ジャンパーが話題になってます。

不正受給は許さない、のメッセージに不快に感じる方がいた、そういうことなのですが。

「身内の中で意識高揚のために作った」と職員に「身内の中だけなら別に良いけど、それを外に着ていくのはモラルに欠ける」の発言がちょい分からない。

私が辞めた理由はFacebookで不用意な発言をしたことですが、宣告された場で「Facebookの投稿に規制をかけていなかった」点を上げられていました。

 

身内なら許されて、公共の場だと許されない。

言っている内容は間違っていないのに?その区別は一体何なのでしょうか?

 

例えば、身内にも発言してはいけない、となるなら分かります。窮屈でしょうが。

逆に公共の場でも発言して良い、でも分かります。傷付く人はいるでしょうが。

黙することもできず、信念を徹すつもりもないのはどういうことか?

 

人が増えると許容できる範囲が狭くなるのかもしれません。

一人ひとり、許容できる分を許容すれば良いと考えてます。

しかし、一人ひとり許容できる範囲はまちまちでそれが統合されていくと、許容できる重なりが多くなり狭くなるのでしょう。

私は理解ができなくても許容しようと考えるのです。

その中で思想が合わず、許容できないと言われるのは、悲しいと感じますが、多くの人を尊重しようとすれば当然の結果でしょう。

 

こう考えると、私は少数の意見を許容することを目指してきましたが、社会は多数の意見を尊重することを目指しているのでしょう。

また一つ発見です。社会と私のベクトルの違いが浮き彫りになりました。

世の多くの人は多数の意見を尊重しようとしているのでしょうね。

これが民意、政治思想の観点でも私の思想は少数な予感です。

 

平均にすることではなく、特化することをずっと考えてきた気がします。

私の現在の状態は、忠言を聞こう=多数の意見を尊重しようと言うベクトルの違いから来る思考に翻弄されている、ような?

いざ飛び込むとうずくまって、ここから消えてしまいたくなります。

 

私のような異分子は多数にとって排除すべき事柄でしょうけど。

排除しようと実際に働きかけるようなことは決してなく。むしろ「相手にされてない」だけ。

邪魔でさえない。靴に入る小石や目に入る塵さえ「邪魔」だと認識されているのに。

価値無価値以前に存在を認められていません。

 

ただ私は私の思考を追究しているだけ。

社会に還元される事柄はなく。存在を認められておらず。

それらすべての事実を許容して。

それでも尚不安になるのは、信念がぼやけたから。

 

一から私を作り直す、今はそういう期間かもしれません。

書き連ねたら、多少はスッキリです。

弱音は常に吐いていきたいです。むしろ、弱音しか吐きたくない!

怠ける、うだうだする、頑張らない。

そんな私で在りたい。

 

五里霧中、抜けた先に道は有るのか?

皆さんの意見が尊重されますように。

(残り1割でも私にしては頑張ったと自画自賛です)

書こうと思ってパソコンの前に座ります。

少しして数文字打ってみるものの、どうにも納得できずにデリートボタンを押します。

文字が一文字もない画面と次第ににらめっこをし始めます。

そうして、今日が1時間で終わる段になって慌てて文字を埋めていきます。


f:id:uenokoeda:20170116144710j:image

 

ここ最近は書きたいことはあるのですが、自分の欲求に素直に従っています。

日がな一日食べるか寝るかの何れかで、偶にアプリのゲームをしています。

社会の規範など忘れたかのような振る舞いは一言で言えば、陸でなしであります。

 

ならば、本当に陸でなしとして親のすねをかじっているだけなのか?と訝しく考える方もいるでしょう。

しかし、悲しいかな9割は書いたまま、事実です。

心優しい人ならば、1割は頑張っているのだろうと弁護してくれるかも知れませんが、9割の実情を鑑みるに怠けた罪を咎める人が大多数でしょう。

心優しい人も9割の陸でなしについては眉をひそめるでしょう。

 

社会の辛口にきっと私は白旗を揚げて降参します。

それでも尚自分に甘い私は残り1割について自己弁護します。

全く、陸でなし。訴える相手は心優しい人たちへ。

 

1月13日の金曜日に3度目の参加となりました、ナナシノエイト。

ナナシノエイト "名もなきオープンマイク0 松本編" 第四夜

Facebookより)

中々の人が来ていまして、少し遅れて行った私はその混み具合に少なからず驚きました。

私の雑な詩と朗読を発表しよう、と考えていたので、運動をしていないのに心臓が早鐘のように脈打ちました。

私がどんな詩を読んだかは…ブログでUPしますので一先ず置いといて。

 

宴もたけなわとなりましても、皆出口には直ぐには向かいません。

バーのカウンターに座りビール片手に語らっていたり、またぞろ会いましょうと固く握手を交わしていたりとそこかしこで談笑の華が咲き乱れます。

そんな中私は一人ただ一人をじっと見て話しかける隙を探しています。

撮影の出演交渉をしよう、と待ち構えていたのです。

 

今回撮影しよう、と考えていたことで何よりの問題は出演してくれる方を探すこと。

最後に撮ったときは一から十まで私一人で賄っていたので、こうして頼むのは初めてです。

出てくれるかどうかは相手の気持ち一つなので、幾ら頭を下げても通らないときは通らないことは百の承知です。

承知の上で未だ全体のラフな構想のみしか描けていないノートを握りしめています。

足もすくんで一歩前に進むのに何度目かの深呼吸をします。

今、一人になったと見るや、それとなく近付いて開口一番「ちょっとご相談があるのですが…」

 

不躾に話しかけたにも関わらず、話を聞いて頂きまして。

こちらはなけなしの言葉をつっかえつっかえ前後しながら説明します。

こちらの話を遮らず、私が話終えるのを待っています。

そうして、私が一通り話して、「…と言うのをやりたいので撮影に出て頂けないか?」と締めると、相手は一つ二つ質問します。

私はそれに短く返答しながら答えるとにっと笑って「良いですよ」

 

いやはや、慣れない交渉を終えて肩の荷がするりと下ります。

相手方は今度は私について色々と質問してきます。

さっきまでとは打って代わって余計なことまで喋り始めます。

まるで壊れた蛇口から水が止めどなく流れるが如し。勢い良く喋ります。

そんな私に付き合って、店を変えまして。

気付けば深夜3時まで。いや、途中から喋ってはいないのですが、とっぷり夜が更けてます。

大変有り難いことです。

 

さあ、これで二人目です。

残り一人が見付かって、引き受けてくれたら、役者さんは揃います。

次に撮影場所…これも早め早めに見つけられるようにしたいです。

 

何はともあれ、絵コンテを書かなくては…それぞれのキャラクターが確立すれば自ずとどうすれば良いか見えてくる筈、です。

 

残り1割でも私にしては頑張ったと自画自賛です。

 

ブログ更新もこれだけ頑張れば褒められて良いでしょう。

そう、私は褒められて良いのです!

だから、私は自分を褒めます。良くやった!

(9割も頑張ればもっと良いぞ!むしろ、もっと頑張れ!!怠け過ぎだ!馬鹿!1割程度で調子に乗るんじゃねぇ!スカポンタン!!)

 

ふう、現実は見ないでおきます。

取り合えず目の前のことから少しずつ消化します。

 

雪が降り止み、雲の隙間から日が射すように皆さんの道に光明がありますことを。

 

内面の追究は私の生きる手段であり、目的だ。

思考することを取っ掛かりに考えます。


f:id:uenokoeda:20170116223125j:image

 

スターバックスに入って、コーヒーとケーキを頼みます。

ここに座って集中しようとスマートフォンで何事か書こうとします。

しかし、一緒にショッピングに来たであろう女性たちやカップルの会話が気になってしまいます。

結句、黙々と食べてスッと立ち去ることになります。机を占拠することに勇気がいります。

 

さて、帰ってから色々と思考をし始めます。

時計の秒針や金魚の水槽で唸る水中ポンプの音に心落ち着いてきます。

内面へ探るのに自分一人がやはり性に合うようです。

 

普遍とは何だろうか?唯名論と言うのがあったが、名前について確か考察したな。そこら辺から攻められるだろうか?

大事にすることを考えたら、私が居ないことに気付いたが、前に私は他者の中に居ると考察したような…関係性は見出だせるだろうか?

撮影について説明したら、「社会の肯定はしているけど、自己は否定したままだ。自己の可能性を示すのはどうだろうか?」と意見を頂いたが、無能な私の可能性とは一体何なのか?それは示すにはどうしたら良いか?

ずっと正義について考察していない。「くらべること」での是非を見直すべきだろうか?

 

等々、考えたいことは山ほどあります。

しかし、こうして考えるに次の仕事はどうしよう、物は捨てるべきか?などの実生活については小指の先ほども考えていません。

 

父はよく、税金についてだとか行政についてだとかを勉強しろと言いますが、どうにも興味が沸きません。

これは良くないのですが、税金を多く払おうが支給額が少なくなろうが構わないです。

そういうのは専門の人に丸投げしているので、言われたことを粛々と片付ければ良い気がしています。

ここも普通の感覚ではないのでしょうから、直すべきかと今は考えます。

 

しかし、税金や仕事や生活リズムに変えようとしなかったのは、アドラーの心理学で言えば自らそう望んでいるから変えようとしないということ、みたいです。

つまり、私は他者に嫌われたいと深層心理で考えている、かもしれません。

私を大事にできないことについては少し考察できたので、あながち外れていない所が怖いと感じます。

 

どうしても私は内面の追究がしたいのです。

高校までは自他共に「変人」と名乗っていましたが、どうして「変わっている」のかは特に気にしていませんでした。

きっかけは専門学校卒業のために友達とのディスカッションだった、と思います。

内面の解らない部分が解ったとき、気持ちが高揚したのを覚えています。

それから、自身の内面にとことん向き合って来ました。

多分、10年くらい内面の追究をしていますが、未だ私は私を捉えることができずにいます。

これは一生ものだな、とその果てしなさに驚いています。

 

何時かは内面の追究を止めるべきだろうか?

良い歳した大人がまるで思春期のようなことに拘っている様はぞっとしないでしょう。

しかし、それは何時決断すれば良いのか?

そも内面の追究に終わりがないから打ち切る、と言う姿勢は本当に正しいことなのか?

 

つい最近言われて嬉しかったこと。

「そこまで考えている人はいない」

何かを追究することは、とても疲れるから生きるのに必要ないならば何処かで諦めた方が良いのでしょう。

されど、私は内面の理解をしたい。

諦めを信条としている癖に内面の追究に諦めない矛盾な私。

 

あえて、言い切る。

 

内面の追究は私の生きる手段であり、目的だ。

 

直すべきところは直そう。

忠言には耳を貸そう。

私さえ見失わなければ、どうにかなる。多分。

思考の放棄はしないでおこう。「人間は考える葦」なのだから。

 

私は内面の在り方をこう考えますが、皆さんはどうでしょうか?

それでは、またのお越しをお待ちしております。

 

 

能天気な一匹と一人の他愛のない与太話。

能天気に考えました。

 

朝、しんしんと雪が降り積もる中、愛犬のリードを持って外に出ました。

テレビでは「最強寒波!」としきりに言い、如何に寒いかを視聴者の脳髄に叩き込まれます。

ニット帽の上からフードを被って外界に晒す肌の面積を少なくしようと玄関口で努力した私は恐る恐る歩いて行きます。

対して、愛犬は前のめりで前を歩き、かと思えば足を踏ん張って立ち止まり、翻って頭から雪に突っ込み、やれ知り合いの犬には跳び跳ねて縦横無尽に動こうとして。

一日の内でこれほど楽しみにしていて、よっぽど家の中が退屈なのかとリードを引っ張りながら思う訳です。

 

凍てつく風が窓を叩いて周り、すべての人間を家の中へと閉じ込めようと躍起になっています。

呼吸する音は寒さから逃れようと自然とふーふーと吐いています。

皆が冬将軍の猛攻に徹底抗戦をしています。

 

そうやって一匹と一人は雪道を連れ立って歩いていますと不意にこの散歩は何時までできるのだろうか?と考えまして。

母は片足がなく、雪が積もった道では天真爛漫な愛犬と連れて歩くには心許なく、これから歳を重ねれば益々危なくなるでしょう。

歳を取ると言えば、愛犬も老いて散歩を気だるく歩く日が何時か来るでしょう。

今こうやって歩けるのは 、偶々で同じ日々はないのでしょう。

 

そうだとしても、もう少し、落ち着いて歩いてくれないだろうか?と愛犬をちろっと見ます。

愛犬は雪に夢中に飛び込んで、今を全力で楽しんでいる様子。

能天気だな、と私はぼんやりと見ています。

 

そうやって眺めている内にまたふと気付きまして。

嗚呼、でも私も結構な能天気だな、と。

何せ未だ職なし、なのに焦る気持ちは何処へやら。

ぼけっと過ごしている姿は動物園のライオンの寝そべる姿、野性の本能は眠ったままです。

 

然しもの愛犬も能天気な私に能天気だなと思われているとは露ほどにも気付いていないでしょう。

はしゃぎ回る犬とぼけっとそれを眺める人間は端から見たらどちらも天衣無縫な組み合わせ、五十歩百歩で違いなどないでしょう。

 

白い雪は雲の下、鈍く銀色に光っています。

せっせと雪かきする人たちの横を軽く頭を下げながら通り過ぎます。

ようやく、家に辿り着いて、痛む指先に血を流そうとぐーぱーと閉じたり開いたりします。

愛犬を母に託して部屋に入ろうとして、後ろから声がかかります。

 

「明日もよろしくね」

 

致し方ありません。不承不承頷いてそのまま戸を閉めました。

明日も喜ぶ愛犬連れて外を歩きます。

思考をするのに歩いた方が良いと聞いたことがありますが、今回はただ野放図広げて終わります。

明日はもう少し思考ができたら良いな、と希望的観測をしています。

 

能天気な一匹と一人の他愛のない与太話。

 

皆さん、くれぐれも転ばないようお気を付けてください。

 

『天神さまへの願いごと』

詩を書きます。

苦し紛れの詩だけど。割りと好き。

 

『天神さまへの願いごと』

 

龍の鱗を逆撫でて

天変地異を引き起こす

 

田畑ひび割れ、山崩れ

雷鳴轟き、川溢れ

屋舍燃え尽き、空赤く

大樹横薙ぎ、海荒れて

 

龍の鱗を逆撫でて

天変地異を引き起こす

 

人々飢えて、横たわり

人々震えて、眼は泳ぎ

人々痛みて、仰ぎ見る

人々悩みて、下を向く

 

龍の鱗を逆撫でて

吾は天変地異を引き起こす

この世を一新するならば

 

全ての腐敗を道連れに

凡ての非情を道連れに

総ての悪党を道連れに

すべてを責を吾と共に

 

されど、龍は何も云わず

じっと吾の眼を覗き

じっと吾の眼を見つめ

 

しばらくして身をよじりて

何も云わず天照す空へと帰った

 

龍の鱗を逆撫でた

吾を一人置いて