ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

@《小さな大学生》みずみずしいな、と目を細めながら。

9月20日、良く晴れた水曜日。

青々としていた稲は、黄金色の稲穂に成長し、刈り取られて干されている。

じっとしていると、虫の鳴き声が聞こえてくる。

秋の到来を感じる今日、ブログ紹介を書く。

 

前回が51人目でしたので、今回は61番目の方にしようと何となく考えていて。

51から10人前後の足した数に当たる人のブログにしよう、くらいの軽い気持ちで。

軽い気持ちだから、読者登録数で61人を通り過ぎているのに気付くのは、結構経ってから。

それとなく見に行った、61人目のブログが、下記リンクの《小さい大学生》さんだ。

 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

読んでみて、柔らかい印象がある。

女性、なのだろう。

言葉の端々が、みずみずしい。

本は読むが、文学の「みずみずしい」が分からない私であるが、このブログは一言で言えば、「みずみずしいブログ」だ。

「瑞々しい」ではなく、「みずみずしい」だ。

30歳の独身で、変人で童貞な私には、とても書けない、若さと柔らかさと真っ直ぐさがある。

 

色々と読んでみたいが、私が紹介したい記事は、下記の「声と人の不思議」だ。

atamatokokoro.hatenablog.com

 

声が通らない日がある、と筆者は語る。

どんなに声を発しても、相手に全く伝わらない日があると。

逆に、ぼそりと呟くような声がしっかりと聞かれる日もあると。

伝えようとすることに変わりがないのに、日によって違うことに不思議に感じている。

 

私は地声が大きく、よく通る声質のためか、「うるさい」と怒られることはあった。

自然公園で子どもらが点で散り散りになっても、私が声を張り上げれば、200m先で遊んでいる子も、反対で飛び跳ねている子も、みんな気付く。

私の声が届かない、と考えたことはなかった。

 

逆に、私は左耳がほぼ聞こえないため、よく聞き返すし、最近は面と向かって話していても、言葉を逃がす。

大体、何を言いたいのか、予測して動いたり、自分が話すときはなるべく情報を多く言って齟齬がないようにする努力をしている。

だから、相手の声が届かないことは、考えたことがある。

 

しかし、筆者は、自分の声が相手に届かないことがある、と言う。

「不思議」と感じているそのことに、私は不思議に感じる。

声が人より小さい訳でないのだろう、伝わる日もあるのだから。

 

それとも、普通の人はこうしたことを悩むのだろうか?

いや、小さい大学生さんの感性によるところが大きい、と推察する。

 

筆者は、伝わらないことに対して、次のようなことを想像した。

 

相手に聞こえていないときって

もしかして、自分は声を発していないんじゃないかと思うこともある。自分の内側に向かって大声で声を発しているだけだったりして

 

「自分の内側に向かって大声を発している」、何だろう、この部分は甚く身に覚えがある。

当ブログは内面の追求だ。

それは空井戸に頭を突っ込んで、全力で叫ぶようなものだ。

そして、ふと考える。

もしや、私が届いていると考えていた声は、相手に全く何も伝わっていないのではないか?

 

私は精一杯、声を出して、言いたいことを言っている、つもりだ。

しかし、それがただ、ガンガン鳴る騒音でしか相手に聞こえないとしたら。

私の思いは、誰一人として知らないことになる。

 

いや、私だけではないかもしれない。

皆が皆、自分が言いたいことを言って、相手は相手の好きなことを言って。

お互いにお互いが聞きたい言葉だけを聞いて、お互いにお互いの伝えたいことを伝えた気になっているだけではないか?

皆が皆、誰一人として、自分の思いを知らせられていないのではないか?

 

恐ろしいことを考えてしまった。

風船を追いかけたら、殺人ピエロに出くわしたような、恐ろしいことだ。

この記事は相手に伝わっているのだろうか?

 

筆者は、伝わらないことに対して、こう続けた。

 

なんて考えながら、

どうしたら相手に声が伝わるのかな

といつも不思議に思っている

 

 

「どうしたら相手に声が伝わるのかな」、嗚呼、ここが分かれ目か。

伝わらないことがあることに不思議に感じながら、伝えようと模索する筆者。

そう考える姿勢が、何だか眩しくて、ちょっと羨む。

みずみずしいな、と目を細めながら。

 

もし宜しかったら、紹介したブログへご訪問して頂くと私も嬉しい。

何故なら、私の声が届いた証左になるから。

 

人任せ、風任せ、ただ連ねるだけ。

秋到来の、ブログ紹介。

135

今日は駄目な日だ。

腕が鉛でも仕込んであるかのように重い。

 

調子が良い日と調子が悪い日が交互にあるような気がする。

幸か不幸か、9月20日は休みだから、調子が悪かろうと何とかなりそうな気がする。

 

付け加える内容も、調子が良い日と調子が悪い日についてにしよう。

こう考えるに、調子が悪い日も悪くない。

 

継続しているから分かった、調子の波。

躁でも鬱でもないけれど、調子の波が激しい。

 

調子の良い悪いの違いは何だろうか?

前提として、「継続する」ことが関係あるように推察する。

 

「継続する」とは、「時間を確保する」ことから始まる。

平日の中で、ご飯を作るのに30分、食べるのに30分、睡眠は8時間、仕事場への往復が40分、働いている時間は休憩時間も含めて13時間、その他諸々があって、「継続する」ための、自由な時間が1時間。

この1時間を、ブログを書くのに私は当てている。

「1時間もあるじゃないか」とあっけらかんとする人もいるだろう。

「1時間しかないのか」と悲嘆に暮れる人もいるだろう。

 

1時間あれば、私の住んでいる場所から松本市街地まで余裕で行ける。

1時間あれば、サッカーの前半戦が終わって、後半戦のキックオフくらいだろうか?

1時間あれば、ドラマ初回放送の終盤に差し掛かる頃だろうか?

 

1時間というのは結構長い。

ブログを書くとなると1時間は、私の場合、1000文字程度は書ける。

「継続する」ことに770文字を書くことにしているので、十分と言えば、十分だ。

 

しかし、そこに、「調子の良し悪し」が入ってくる。

そうすると話が変わってくる。

 

調子が良いと、睡眠時間を削っても問題ないくらいに文字が出てくる。

770文字どころか、2000、3000文字も書ける。

 

調子が悪いと、パソコンの前に座って、じっと固まる。

1文字も書く言葉が出て来ない。

 

日によって、1時間「も」あると感じるか、1時間「しか」ないと感じるか。

その感じ方は、「継続する」という意識の問題なのだ。

もし、「継続する」ことを放棄すれば、1時間は私の好きにすれば良い。

もっと寝れるかもしれないし、好きな漫画を読むことだってできる。

 

しかし、私は「継続する」するために「時間を確保」した。

毎日である、1日も欠かさず。

ご飯を食べるのさえ、たまに忘れる私が、「継続する」というのは、実は途方もないことなのだ。

そう言う意味では、調子が悪いと言える状態がそも珍しいことで、そう言えることが幸せなことだ。

 

だからと言って、調子が悪いと記事が書けないので、できれば調子が悪くてもしっかりと書けるようになりたい。

「意味のない数字」を方向性については、現在進行中で、これがまとまれば、調子が悪かろうが多少役に立つ、と今は言っておく。

例え、調子が悪くても、記事作成が難なくできる、そんな未来を微粒子ほどに期待する。

 

上手く付け足せただろうか?

そこはかとなく不安だが、これで締める。

 

投稿します。

思考実験「ヒトの言葉を喋る猿」

身体から自然と発せられる熱で寝付けない。

暑いなとゴロゴロしていて、ふと急に、7月のナナシの0のことを思い出した。

uenokoeda.hatenablog.com

 

あの日に比べれば、それほどでもないな、と天井を見つめる。

ナナシノ0では、確か私が普段考えていることをまとめたのを発表したな、と回想する。

そこで、その時に発表した思考実験をまだ備忘録にも書いていないことに気付く。

身体の熱が冷めないうちに、書くことにした。

 

アンダーバーより下記から発表した内容。

実際は会場の人とのやりとりや適当に言ったところもあるが、書くに辺り、言葉を補足、添削してある。

 

__________

 

質問します。

自分が「人間」だと言える人は挙手してください。

挙手した人は、どうして自分が「人間」だと考えているのでしょうか?

この思考実験は、私が普段考えていることの一端です。

 

………

思考実験「ヒトの言葉を喋る猿」

 

ヒトの言葉を喋れる猿が居る。

背丈は80cmほどで、茶色い毛並みが綺麗な猿だ。

猿は普通にヒトとコミュニケーションが成立するレベルに喋ることができる。

その猿が、ある日、こう言った。

 

「私は人間だ。何故なら、ヒトの言葉を話せるから」

 

それに対して、ヒトはこう言った。

 

「いや、猿じゃん。ヒトの言葉を喋れる猿じゃん」

 

そこで猿は、勉強をした。

あらゆる知識を吸収し、遂に最高学府の大学に首席で合格した。

猿は、こう言った。

 

「私は人間だ。何故なら、最高学府の大学に首席で合格するほど頭が良いから」

 

それに対して、ヒトはこう言った。

 

「いや、猿じゃん。勉強ができる猿じゃん」

 

そこで猿は、スポーツをした。

鍛錬に鍛錬を重ね、遂に数々の大会で金メダルを取った。

猿は、こう言った。

 

「私は人間だ。何故なら、数々の大会で金メダルを取れるほどスポーツに精通しているから」

 

それに対して、ヒトはこう言った。

 

「いや、猿じゃん。むしろ、猿なんだからヒトより運動が優れているのは当然じゃん?」

 

そこで猿は、事業を起こした。

寝る間を惜しんで働き、遂に年商1億を稼ぐまでに成長した。

猿は、こう言った。

 

「私は人間だ。何故なら、年商1置くの事業にまで成長させることができたから」

 

それに対して、ヒトはこう言った。

 

「いや、猿じゃん。そんな苦労するより、「言葉を喋れる猿」で売った方が儲かりそうじゃん?」

 

猿は、ヒトの顔のマスクを作り、そのマスクをすっぽりと被った。

鉄製の自立できる100cmの竹馬で背丈を180cmにした。

スーツを着て、手袋をはめ、茶色い毛並みを隠した。

ヒトのように見えるようになった猿は、こう言った。

 

「私は猿だ」

………

 

私は「人間」とは勉学や運動、仕事の成功などの自身の内面からではなく、第三者の認識によって「人間」とカテゴリーされるものだと考えます。

「私」が幾ら「人間」だと言っても、自身の周り、社会が「私」を「人間」と認識しなければ、「私」は「人間」に成り得ない。

「人間」と認識されて、はじめてヒトは「人間」となる。

 

改めて、質問します。

自分が「人間」であると自信を持って言える人は挙手してください。

 

__________

 

以上。

 

この思考実験は私のオリジナルだ。

ただ、調べた訳ではないので、断定はできない。

似たようなのがあったらお教え頂けると助かる。

 

皆さんは、自分が「人間」だと言えますか?

134

目覚ましアラームを止めてみた。

目覚ましアラームで起きても、眠いのがどうにもならないから。

 

遅刻するのは良くない、と考える。

だから、目覚ましアラームを出かける時間の1時間半前、1時間前、30分前の3回、鳴るようにしている。

 

しかし、起きても最近は頭がぼやっとしている。

それは、眼鏡を外して見たランドルト環のような、ぼやっとした感じだ。

とにかく、寝たい欲求がとても強い。

今回は前日が寝るのが遅かったこともあり、何時にも増して眠かった。

 

だから、目覚ましアラームが鳴らないようにした。

どうしても起こされたくなかった。

スマートフォンの電源を落として、眠りについた。

 

目が覚めて、飛ぶ鳥を落とすように、勢い良く起きた。

外が暗くなり始め、これは遅刻したかもしれないな、と半ば諦める覚悟をした。

しかし、時刻は出かける30分前、大変丁度良い。

 

目覚ましアラームで起こされなかったからか、すこぶる体調が良い。

本当にしっかり寝れたように感じる。

 

そして、気付く。

目覚ましアラームがない方が気持ちが楽になっている。

 

遅刻しないようにと3度鳴るようにしていたが、止めるのが面倒になっていた。

今回、目覚ましアラームを止めたら、その煩わしさから解放された。

心も身体もスッキリしている。

 

もしや、いつも眠い眠いと言っているのは、目覚ましアラームのせいか?

否、目覚ましアラームは良い仕事をしていた、何度遅刻するのを防いでくれたか。

眠い眠いと言っていたのは、他ならぬ私だ。

 

しかし、今回のことで目覚ましアラームを利用するのは止めようと考える。

遅刻するリスクより、眠れた実感のリターンが大きかったから。

しばらく止めてみて、問題ないなら、そのままにしよう。

 

目覚ましアラームを止めてみた。

意外に何とかなって驚いている。

自分の身体のリズムをもう少し信用しよう、そう考える秋の夕暮れ。

 

投稿します。

@読者登録しているブログを整理する。

閑話休題

 

読者登録しているブログを整理する。

何を突然、酔狂なことを驚かれた方もいるかもしれない。

直言したい方もいるかもしれないが、まずは私の言い分を聞いて欲しい。

 

はてなブログの読者、気に入ったブログを定期的に読んでくれる人。

多少なりとも、琴線に触れる記事があれば、読者としてそのブログをフォロー、即ち読者登録する。

当ブログも有り難いことに、70人(2017年9月16日時点)の方が読者登録されている。

 

当ブログの詰まらなさは折り紙付きであるが、その詰まらなさが逆に良いのか、当ブログの読者さんの琴線に触れたようだ。

有り難さで咽び泣くような心境になりながら、読者登録返しをする。

 

当ブログが1年と過ぎ、ふと読者登録したブログを流し見てみる。

すると、顎が外れるほどあんぐりと開いた口が塞がらなかった。

開いた口が塞がらなかった理由は、主に2つだ。 

 

1つ、更新が全くない。

「ブログに記事を毎日書くぞ!」と書いていたあの人やあの人…

ある日を境にぷっつりと更新していないブログが多々あるのだ。

ぷっつり切れる前には、何かしら忙しそうな雰囲気はあるものの、普通に更新している。

「最近は書けてないけど、これからも宜しく!」と早い段階で次の記事を作成する意欲を存分に見せて、ぷっつりと更新しなくなっている。

更新していないから、どんどん後ろの方に回されていく。

そうして、更新していないブログが海底に沈む錆びた碇のように、静かに横たえているのだ。

 

2つ、ブログ記事を1回しか読んでない、または、1度も読んだことがない。

私のブログを登録されたら、積極に読者登録返しをしている。

読者登録返しを批判する意見もあるが、私は読者登録返しにおいては肯定派だ。

まず、読者の皆様は十二分にお分かりだろうが、本当に詰まらないことしか書いていないのだ。

そんな詰まらないブログを登録してくれる人が書くブログとはどんなのか?普通に気になる。

書いている内容が私が興味のないことでも、読んでいくと新しい発見や面白い発想に巡り会える。

受け身な私にとって、読者登録返しは、思いがけない思考の出会いなのだ。

しかし、今回の流し見で、記事を読んでいないブログがそれなりにあることが分かった。

私の無関心が炸裂している様が在り在りと浮かび上がったのだ。

 

この状態は果たして、健全なのだろうか?

ふと、疑問が頭をもたげた。

このまま読者登録をしていて良いのだろうか?

 

普段の私なら、整理などしないでそのままにする。

 

mixiでは、投稿しなくなったマイミクをそのまま残している。

1人、また1人と消えて、今はたった1人だ。

 

Facebookは、ネットワークビジネスの類いだろうと、エロサイトへの誘導目的だろうと友達申請されれば即応じる。

お陰で500人の方と友達になったが、ほぼ知らない人だ。

 

mixiFacebookも、私は「繋がる」ことに重きを置いている。

復帰した時に迎えられるように、mixiのマイミクは整理しない。

ひたすらに「繋がる」ために、Facebookの友達は整理しない。

 

では、はてなブログはどうか?

はてなブログは「繋がる」ことより、「内面の追求」に重きを置いている。

なら、読者登録しているブログは何か?

私の「内面の追求」に付加、疑問、追求するのに外部の刺激として「読む」ために読者登録している。

 

しかし、現状、更新していないブログや、全く読んでいないブログが跋扈している。

台風が近付く曇天の、生えっ放しのススキの荒野のような、寂寥とした空間になっている。

この現状に、私は、「読む」と言う行為を蔑ろにしてはいないか?と感じた。

 

私は何かを欲するとき、よく吟味する。

靴を買う時は、丈夫で長持ち、防水加工してある、値段が手頃で普段の服装と合う靴を棚を行ったり来たりして選ぶ。

スマートフォンを買う時は、どのメーカーが良いのか調べ、デザインを見て、また調べてを繰り返して選んだ。

長い期間を使う物つもりだから、自分が納得した物を買いたい。

 

このブログは長く「内面の追求」をするために、よく吟味したい。

納得して、先に進めたい。

そうしたとき、新たな刺激として「読む」ブログはよく吟味した方が良い。

私のエゴに重きを置くならば、私が「読みたい」と納得したブログでないと筋が通らない。

故に、読者登録しているブログを整理することを決意した。

 

暴君が如き、乱暴で非情なことだ。

ブログを登録しておいて、登録を見直すなんて傲慢かもしれない。

それでも、「内面の追求」、私自身のために、やる必要があることを承知して頂きたい。

 

…これで良いのだろうか?間違えている気もしなくもない。

間違い続けた人生だからこそ、選択することの怖さが付きまとう。

戦々恐々としながらも、それでも断行…

 

後は野となれ、山となれ。