ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

156

体調が芳しくない。

鼻水がずるずる出るし、喉の奥が少し痛い。

これは、風邪の引き始めだろう。

 

本当なら、医者に行って、安静にするのが正解だろう。

しかし、不幸中の幸いなのか、鼻と喉以外の身体から、悲痛な訴えはない。

休むには微妙な感じだ。

もっと重篤なら考えるまでもなく、休むのに。

 

風邪は移されたくないが、休まれると疎まれる。

風邪を引かないが最上だが、油断しない人生は荷が重い。

 

とかく、迷惑にならないよう自己申告すべきか…

悩ましい、こういう時、子どもに戻りたい。

子どもならば、責任だとか規律だとか、大人に丸投げできる。

いや、子どもでも、責任や規律を重視する子もいるか。

熱でどうにかなってしまった、とそっぽを向く。

 

肩甲骨や、背骨、大腿骨の普段は気にしない節々がじんわりと感じる。

それは、節々に薄っぺらい手で触られているような感じだ。

無遠慮に、無言で、私の骨の節々をべっとりと触っている。

その手から発せられる熱、のようなものが、私を苛立たせる。

動くのにまとわりつく手のお陰で、私の動作に幾分かのタイムロスを起こす。

 

この手の正体は、本当は分かっている。

それは、私の意識、私自身だ。

身体の調子がおかしいことを、どうにか私に伝えようと内側からメッセージを送っているのだ。

 

しかし、私は、節々に薄っぺらい手をまとわりつかせたまま、仕事をする。

強引に動かして、軋ませながら、身体を動かす。

内なる声に耳を貸さず、目を背け、すぐ詰まる鼻をすする。

 

私だって無茶をしたくない。

したくないが、やらなければ会社に迷惑だ。

 

誰か、私の代わりに働いてくれないだろうか?

そんな無体、無益なことを奥歯に噛み殺せずに、口からまろび出る。

 

体調が芳しくない。

本当に、体調が芳しくない。

 

今も、節々に薄っぺらい手がまとわりつく。

分かっている、分かっているから、見逃してくれ。

 

葛藤、悶絶、社会人。

願わくば、寝て起きたら、病魔よ退散しておくれ。

 

投稿します。

155

「154」を書き直さず、付け加えず、次の記事を書き始める。

 

きめ細やかな雨が音もなく降っている。

薄い雲で覆われているためか、指先から冷たい空気が通り抜けていく。

 

付け加えることは、後で転がして思案する。

ライトノベルの感想か、旅の感想か、はたまた別の事か。

丁半博打で投げられるサイコロのように、行く末を転がす。

 

ふと、「770文字を毎日書く」と言ったが、後から付け加えるのは、良いのだろうか?

誤魔化し誤魔化し、毎日を過ごしているのでは?

 

いや、私にとって重きを置いていることは「継続する」ことである。

「770文字」はおまけで、しなくても本当は良いことだ。

継続するためなら、1文字でも良いとさえ私は考えている。

 

そも、「私」の追求は、私自身の生き方においての問答であって、学術として他に知らしめるためではない。

多くの意見を募りたいのは、「私」の追求する上で最適解を求めたいからで、「私」の普遍化は目指していない。

 

私の身勝手な自己満足の域から出ておらず、自己満足の域の外、私以外の人間の満足は度外視している。

 

何処まで行っても、この私。

 

アンパンのマンのとある歌で、ある歌詞が共感する。

 

「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ」

 

当ブログを継続する意味は。

私が「私」の追求をする意義は。

私は「このために生まれて、これをして生きる」と答えるため。

 

誰に答えたいのかは、もちろん、私自身にだ。

実は、そんなに難しいことではないのかもしれない。

ただ、私がいつまで経っても納得できないだけ。

 

何処まで行っても、どんなに遠く進んでも、地平線の彼方、世界の果てまで行っても、行き着く先は、この不甲斐ない私。

故に、諦めて、拘って、もう一度歩き出す。

答えが変わらないからと言って、私が歩むのを止める理由にはなり得ない。

 

もっと、別のことに興味が湧けば、また違うのだろうか?

雨脚強まる正午過ぎ、冷えた手の平に、熱い息を吹き掛ける。

 

投稿します。

154(都道府県制覇を目指して)

3連休の最後をライトノベルを読み耽って終わりにした。

集中して、1mmもその場から動かなかった。

 

何も食べなかったから、腹の虫が鳴いている。

軽く軽食も買いたい。

 

とても満足した、3連休。

何の後悔もない。 

 

何の後悔もない、3連休のハイライトは、やはり日光東照宮を含む日光の寺社巡りだろう。

小雨だというのに、修学旅行や海外の方まで多くの人が参拝に来ていた。

日光東照宮への出入り口から入って直ぐ、三猿、眠り猫、陽明門と、割と前半に私が見たいものが固められていた。

その後、長い石段、鋳抜門と意外と見所が多かった。

それに、薬師寺の鳴き竜、化け灯籠、神橋など、一日巡っても十分楽しめた。

 

そう言えば、連休となれば遠出をして楽しんでいるが、都道府県で言えば、何処まで制覇したのだろうか?

北から、南へと1人旅をしていると、何時か47都道府県を制覇したくなるものだ。

3分の1は制覇したか?

いや、修学旅行は除外して考えよう。

あと、通過した、一休みしたも狡い気がするから除外。

思い出し思い出しで、今まで行った場所を書いてみる。

 

※追記&編集(2018年12月8日時点)

今までこけしを撮った場所を記録する。

 

北海道(札幌市:時計台、函館市:五稜郭タワー等の観光名所)

岩手県(平泉町:古寺巡り)

山形県(尾花沢市:銀山温泉と神社めぐり、立石寺(山寺))

宮城県(仙台市:青葉城址)

群馬県(富岡市:富岡製糸場)

茨城県(日光市:日光の寺社巡り)

埼玉県(久喜市:鷲宮神社)

東京都(新宿、秋葉原、東京スカイツリー、渋谷ハチ公前、浅草、東京ドームシティetc.)

神奈川県(横浜市:横浜マリンタワー、横浜人形の家島の観光名所、鎌倉市:鎌倉の大仏、神奈川県立近代美術館、箱根市:箱根神社、温泉)

千葉県(舞浜市:東京ディズニーシー&東京ディズニーランド)

新潟県(新潟市:ドカベン像)

長野県(《北信》長野市、筑北村、高山村《中信》松本市、塩尻市、大町市、南安曇郡、《東信》上田市、佐久市、《南信》駒ヶ根市、諏訪郡:諏訪湖、富士見町)

静岡県(静岡市:日本平、久能山東照宮、伊東市:まぼろし博覧会、大室山、富士山(富士スバルライン5合目〜山頂))

愛知県(名古屋市:シートレインランド、愛地球博記念公園、名古屋タワーetc.)

富山県(高岡市:古本なるや)

石川県(金沢市:21世紀美術館)

滋賀県(琵琶湖)

三重県(松阪市:道の駅日高駅とその周辺、伊勢神宮とおかげ横町)

京都府(鴨川、伏見稲荷大社、大嵐、東本願寺、清水寺)

奈良県(奈良市:奈良公園と寺社巡り)

大阪府(大阪市:道頓堀、通天閣、吹田市:万博記念公園)

鳥取県(鳥取市:鳥取砂丘、境港市:水木しげるロード)

香川県(小豆島:二十四の瞳映画村)

愛媛県(松山市:道後温泉とその近辺、松山城、タオル美術館)

広島県(廿日市市:厳島神社、宮古島、広島市:原爆ドーム)

山口県(下関市:巌流島、海響館)

福岡県(福岡市:櫛田神社、住吉神社、玄界灘)

 

…以上。

47都道府県中、27都道府県、訪れたことがある。

振り返ってみると、重複した場所も多々ある。

この記事は47都道府県を制覇するまで増やしていく。

 

残り20都道府県、頑張ろう。

 

 

行動力はある方だと考えていたが、いや、中々のフットワークではないだろうか、と自画自賛。

北から攻めるか、南から攻めるかの楽しみも増えた。

次は何処に行こうか、地図と睨めっこする。

 

投稿します。

153

記事に寄せられたコメントの返信をする。

ブログがSNSの類いであることを、思い出させる。

 

私は、大変な無精者だ。

LINEでも、通知が着て、既読を着けて、返信するまで、一定期間、途方もなく放置する。

冬休み前の終業式で、机の奥から出てきたくしゃくしゃの「5月のお知らせ」が出てくるような、放置だ。

または、庭で収穫したミニトマトを机の上に無造作に置いたまま、気付いたら茶色を通り越して黒い塊と化けるような、途方もない放置。

 

好き勝手に持論暴論を打ち上げている当ブログにも、有り難いことに、私とは違う視点からの意見を頂けるようになった。

そして、そのコメントを読んで、「後で書こう」と考えるのだ。

 

何故、直ぐ返信をせず、「後で書こう」になるのか?

それは、コメントの意味を私なりに解釈して、そのコメントに対して、できる限り正確に私の気持ち、考えを示そうとすると、自然、時間が驚くほど過ぎ去る。

午前中に始めた部屋の大掃除中、偶々手に取った漫画を読んでいたら、夕飯になっていたかのような、過ぎ去り方だ。

または、中学の初恋の相手が、もう二児の母親だと知るような、驚きのある時間の過ぎ去り。

 

丁寧に返そう、とする意識が強過ぎる。

それから、書くのが遅過ぎる。

あと、返信をしようとするのに、マイペース過ぎる。

何もかもが規格外だ。

 

もっと早く、適切に、ストンと腑に落ちる文を、私の悲喜交々した気持ちを添えて、お届けしたい。

しかし、現時点の私の技量では、これ以上、早くも、適切にも、できない。

ただただ、勘弁願いたい、と自分が許されることしか考えない唐変木な私。

 

もし、許して頂けるのであれば、これからもコメントを頂きたいと、か細い声で手を擦り合わせて願う次第。

許して頂けないのであれば…とかく、技量を上げるしか道がないので、ヒイヒイ言いながら、指と脳を酷使せざる得ないだろう。

 

嗚呼、もう、嗚呼。

自分の無精具合に、ぐうの音も出ない、雨の夜。

 

投稿します。

152

上手くまとまらなかった…

一応、スマートフォンに書かれた内容を手にステージに立つが、逸る気持ちで視線は前のめり。

言葉は逃げて、余計な所に潜り込み、増えたり減ったりしながら喋った8分間。

反省しかない…前回が好評だった故に、眉間にしわが自然と寄る。

 

先ほどまでのナナシのエイトの一幕の話だ。

相変わらず、この空間が好きだ。

何が飛び出すか分からない緊張感と、何をしても許される寛容感の混沌とした雰囲気が、好きだ。

 

さて、この記事で、「152」だ。

カテゴリー「○○を取っ掛かりに考える」の記事数をいつの間にか、越えていた。

意味のない日々を過ごしている内に、詰まらない時間が思考する時間より多くなった訳だ。

 

いや、このブログを始めてまだ1年だが、30年の人生の時間軸で考えれば、詰まらない時間の方が長い。

始めた当初は、黙々と考えていたことを一気に書き出していた。

「いつも思考しているんだな」と思われていたかもしれないが、そんなことはない。

詰まらない時間が思考する時間を越えたことで、本来の私の姿に近付いただろう。

 

しかし、詰まらない時間の日々の長さが私の本来の姿だとしても、思考する時間もまた私の側面だ。

詰まらない記事を量産する喜びと、思考する記事が中々書けない焦りの混沌とした感じは、嫌いではない。

 

上手くまとまらない…

ナナシのエイトも、当ブログの記事も、行き当たりばったりでやっている。

もっと考えてやりたいような、出たとこ勝負でするスリルを楽しみたいような、難解極まる複雑な感情で、やはり、眉間にしわが寄る。

 

将来は、怒ってないのに、「怒ってる?」と聞かれるような風貌になっているかもしれない。

…いや、ないか。

軽い感じに受け止められ易い所があるから、むしろ、眉間に刻まれた方が威厳があって良いかもしれない。

 

びゅーと、冷たい風に、熱くなった頭が冷える13日の夜。

 

投稿します。