ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

362

ゆっくりと確実に、雲が雲の隙間を埋めていく。

スポンジ生地に丁寧に塗るクリームのように、均一に雲が伸びていく。

そして、夕方、世界は灰色になった。

 

この灰色は病室の壁のようにも見える。

何の刺激もなく、何の変哲もない。

病室の壁のような空は、自分が周りから隔離されたような気分になり、妙な不安を覚える。

 

仕事で一つ上の役職への打診があった。

主だった理由が、休みなく長く続けている人だったから。

数日、考えて、承けても良い旨を先程伝えた。

 

昇格なのだから喜んで素直に引き受ければ良かったかもしれない。

しかし、このポジション、ストレスが半端ないらしい。

今の職場を辞める理由の1つが、このポジションでのストレス、と囁かれたのを聞けば、どうしても二の足を踏んでしまう。

 

私は兎に角、お金よりも休みが欲しい人間だ。

今のままの方が、ずっと良いのだ。

しかし、周りの希求する声を完全に無視できるほど図太くない。

 

それに、ずっとこのままで居続けることへの懐疑もある。

全く分からない訳ではない、手間取るだろうが、やれる気もする。

なら、引き受けてみよう、と考えた。

 

このまま、灰色の世界に居続けるのも悪くない。

しかし、普通の青空の下で普通の人のように振る舞いたい欲がある。

隔離されていれば安全だが、得るモノもない、何となくそう考える。

 

雨の匂いがする。

この雨が通り過ぎれば、夏だ。

361

頭がクルクルパーな私は相変わらずよく分からない行動をする。

ヒヨコがピヨピヨと鳴いて向かった先は、佐久市コワーキングスペース「iitoko」だ。

「何が起こるかわからないけど、とりあえず集まって、その場の流れで何かやる交流会」なるイベントに参加した。

 

15時頃、うだうだと過ごしていたら、上記のイベントを見つけ、(おや、どんなイベントだろうか?)と気になったので、情報ページを開く。

すると、どうやらかなりの見切り発車、「何が起こるかか分からない」に強烈に惹かれる。

ドラクエパルプンテを受けたように、18時30分頃、佐久市に着いた。

 

とは言っても、集まるのはきっと大人、それほど弾けた人は来ないだろう。

私のような常時状態異常な人間は少数だ。

何となく、浮くかもな、といつもの諦めの儀式を車内で済まし、乗り込んだ。

 

しかし、蓋を開けてみれば、かなりの個性派揃いが集うことに。

何か私と同じくらいテンションが高く相槌を打つ人(ここに来る前に11kmのマラソンをしたそうだ)や。

AKBのファンで、帰り際にはCD(アルバムや新譜も含め)を無料で配布する人や。

住処を転々としている上に、会員制のキャバレー運営やら何やら仕事も転々とする謎の老人や。

サービスセンターに繋がらないから、繋がるまで居た人や。

落ち着いた雰囲気でありながら、場の雰囲気にも呑まれない胆力がある女性や。

この企画を計画した、恐らく、集まったメンバーの中では一番まともな人や。

その中に1時間半かけて安曇野から「面白そうだから来た」という、私が入って…

 

パルプンテ、会場がもう、パルプンテ

話す内容も実に下らない、それを2時間話した。

どう下らないかと言えば、佐久市を舞台にしたRPGのストーリーを考える、小学生男子のような話をした訳だ。

 

馬鹿笑いを連発した。

最後辺りで関西の人がよく使う慣用句(?)が思わず口から溢れ出た。

「個性が渋滞を起こしている」

 

いや、本当に、素晴らしくエキサイティングな会であった。

次回もあるなら、是非、参加したい。

今度は、ちょっと、企画っぽいのも放り込みたい(できればだが)。

 

あー、こういう馬鹿な大人がもっと増えれば世の中も生き易いだろうに。

というより、もっと増えても良い。

「正しさ」に執着することが、必ずしも正しいとは限らないことを知る私としては、切に願う。

 

「正しさ」と「馬鹿らしさ」が釣り合うように、明日も躓きつつ、行く。

360

部屋の小窓の上半分が青い。

電気を着けていない部屋にその青さは眩しい。

そんな晴天の日、私は部屋に篭城していた。

 

もうすぐ日を跨ぐ。

日を跨いだら、15日となる。

13日の朝から、トイレと食事以外で部屋から出ていない。

 

つまり、1日と半日、外に出ていない。

身体は健康そのものなのに、やっていることは病人のそれだ。

明日もゆっくりと過ごしたい。

 

正岡子規は床に伏せた部屋にある小窓から、移ろう景色を眺めていた、と聞いたことがある。

正岡子規のような文才も、境遇も、ましてや衰退した身体でもない私が、彼の偉人と同じ思いになることはない。

しかし、小窓から見えるこの鮮烈な青さを、正岡子規も見たのかと、想像する。

 

このまま、何もせずに、無益に過ごす幸せを噛み締める。

他の誰かはきっと、無益なこの過ごし方を良しとしないだろう。

それでも、何もしない、という幸せは、少なくとも私の人生には必要だ。

 

ぐずらぐずらと考えながら、真っ黒な上半分の小窓を見る。

あの何処までも青い青は、気付けば、黒くなっている。

青いか、黒いか、間は何処かへ行ってしまった。

 

この後も、まだまだ呆けて過ごすつもりだ。

休日も後少しで終わる。

終わった後、何かを為す、何かを成す、そうした幸せが待っている。

 

浅く広く、ぽけらと過ごす、休日は幸せだ。

永久に続かない、けれど、永久に続く幸せだ。

誰かに理解されなくても、私が大事にすれば良いだけの、ちっぽけな幸せだ。

 

ちっぽけな私のままに、15日をよっとこ迎える。

359

鏡を見たら、鼻毛が飛び出ていた。

異質な突出物が私の右側の鼻孔からその存在感を存分に開けさしていた。

その存在感たるや、群馬県高崎白衣大観音像や茨城県牛久大仏像と比べても遜色ないくらいだった。

 

鼻毛をそっと掴むと、一気に引き抜いた。

想像していたよりも容易に、あっさりと抜けた。

私の鼻孔から抜けた鼻毛は1cm強はあった。

 

あまりに立派だったので、私は軽く水洗いをしてアルコール殺菌をした。

そして、その鼻毛を自分の持ち物の傍に置いた。

後で写真にでも撮ろう、そう考えていたのだ。

 

暫くして、ゆっくりできる時間があったので、しげしげと鼻毛を見てみた。

大きさは前述した通りの大物であると同時に、指先でゴロゴロとした感触があるくらいにしっかりとした芯があった。

毛先はほんの少しだけ白くなっていて、私の体内にそれなりに長い時間いたことが伺える。

 

その巨躯に相応しく、毛根も視認できる。

艶のある美しい光沢からは、十分な栄養を補われていたことが分かる。

パサパサな私の頭の毛よりも、鼻毛の方が毛としての位は上ではないか、と感じるほどだ。

 

「私」の境目について、考察していたことを思い出していた。

私の爪も、私の髪の毛も、私が意識するから「私」が現れる。

この鼻毛も、「私」の自意識を意識すれば、「私」の境目となるのだろう。

 

そう考えて、鼻毛から、「私」の自意識を見出そうとしてみた。

しかし、考えていた以上に、鼻毛は鼻毛としての存在感で私の意識を支配し始めた。

「私」という自意識の存在感よりも、現実の鼻毛の存在感の方が余程「確からしいこと」だったのだ。

 

鼻毛の存在感に負ける「私」とは何だろうか、と若干落ち込む。

しかし、この「私」を圧倒する鼻毛も、元は私の身体から抜け落ちたものだ。

と、理屈で考えても、やはり、鼻毛は鼻毛だ。

 

どの角度からも見ても鼻毛だな、と感慨に耽っていた。

軽く指先で転がしていたら、勢い余って手から落ちてしまった。

慌てて、落ちたであろう鼻毛を探してみたが、見当たらない。

 

あれだけ立派で「私こそが鼻毛だ」と主張していた彼の物は、刹那の瞬間に消えてしまった。

実在する鼻毛が消える訳がないので、隈無く探せば見付かるはずだが、僅か1平方メートルがサハラ砂漠のように感じて、途方に暮れてしまう。

もう少し早く、写真に収めておけば…と悔やまれる。

 

私の鼻毛は、今、埃まみれでいるだろうか?

私の鼻孔にいた頃も、外気からの埃などを防いでいたから、存外違和感がないかもしれない。

もしかしたら、自由になったから、私の鼻孔にいた頃よりも楽しんでいるかもしれない。

 

旅立つ鼻毛に、私から。

さらば、鼻毛、達者で暮らせよ。

などと、鼻毛の行く先を意味もなく案じてみる。

358

仕事場での道すがら、松川村を通り抜ける。

その松川村に「松川村有害図書自動販売機No!宣言をしています」と掲げた看板を見かける。

有害図書とは、即ち「大人の本」等であり、子どもにとって有害な物だ。

 

ある一定の年齢になれば、大人の本は一種のファンタジー、空想の産物であることは分かるだろう。

しかし、ファンタジーにしては生々しさが際立ち、子どもに見せるには滴さない。

有害図書と名指しするのも、仕方ないか、と考える。

 

ところで、「松川村有害図書自動販売機No!宣言をしています」の看板から300mほど離れた場所に、小屋がある。

無機質で無骨なトタン板でしっかりと囲まれている、小屋がある。

まさか、と感じるが、有害と名指しされている小屋ではないか?

 

小屋の前は自動車で乗り入れるのに十分なスペースがあり、恐らく、自動車が何度か通ったために草木が生えてない箇所がある。

ゴミ集積所なら、曜日毎の回収するゴミについて書いた案内があるはずだが、貼られていない。

農具の置き場やガレージなら、周りに何かしら置いてある気がするが、小屋の周りには何もない。

 

唯一、貼られている案内が、「半額」と書かれたピンクと白のツートンの広告だけ。

怪し過ぎる…いや、しかし、目と鼻の先に看板がある…

あの看板を無視することは、できるのか?

 

今朝方、5時頃、かなり明るいが人も自動車も見かけない道を快走した。

ふと、例の小屋が目に入った。

…周りに誰もいない、今が確認するチャンスでは?

 

私有地の、ただの小屋なら、謝りながら出ていこう。

遠くに、しかし、しっかりとあの看板も見える。

まさか、ね…と自分の想像を手で払いながら、横付けして覗く。

 

その、まさかであった。

計4台の有害図書自動販売機があった。

DVDにビニ本ジョークグッズまであった。

 

そろそろと出て、自動車を発車させる。

例の看板が睨んでいるような気がして、身が縮む。

覗いただけ、と言っても許してくれそうにない。

 

想像する、あの看板は役所がある程度関係しているだろう。

あの看板を掲げるくらいだから、有害図書自動販売機の設置された場所も把握しているだろう。

つまり、私が訪れたあの小屋が有害図書自動販売機であることを知っていることが前提にあっての、「松川村有害図書自動販売機No!宣言をしています」の看板なのだ。

 

もし、小屋が先にあったなら、わざとあの場所に看板を設置したことになる。

もし、看板が先にあったなら、やはりわざとあの場所に小屋を設置したことになる。

物々しい、完全に抗争しているではないか…?!

 

これは確かに有害だ、大人のドロドロした争いがひっそりと、しかしバチバチと火花を散らしていたとは…

知らないとは幸せだ、知らなければただの看板とただの小屋でしかない。

子どもがこの生々しさを知るには、早い。

 

何れ大人になるまだ子どもの君へ、怖がりながら、前へ進み給え。

いきなり飛び込まない方が良い、心臓に悪いから。

ゆっくりで良い、何れ知るとしても、ゆっくりで良い。

 

子どもの未来を憂いながら、さもしい私は目を伏せて、看板と小屋の前を通り抜けた。