ドアノブを取っ掛かりに考えた。
他の者を拒絶するドアの向こう、別の空間へとアクセスするための取っ掛かりとなるドアノブ。
我が家だとトイレへの道、便意からの解放に、ドアノブがないときっと絶望するだろう。
ところで、ドアノブで首吊りが出来るらしい。
確か、「ツレがうつになりまして」でドアノブにネクタイを引っ掛けて死のうしていた、と描かれているのを記憶している。
読んだ当初、「へえ、ドアノブでも良いんだ。覚えておこう」と考えた。
梁はとても高く、縄で括るのが大変だ。
死体を下ろす労力のことを考えると、楽な方が良いだろう。
ドアノブなら割とお手軽だ。
それに、人の動線を考えれば、出入り口付近にある死体の運搬もスムーズに行えるだろう。
そう、以前から書こう書こうと考えていたことがある。
ブログは逆張りをすると良い、と聞く。
あと、私は極論好きだ、というのもある。
つまりは、だ。
あえて、言い切る。
SNSで「死にたい」と言う奴は死ねば良い。
死にたいと宣うなら死ねば良いではないか?
死なないのは、逆説的に「死にたくない」ってことになる訳なのだから。
偉そうなことを言っているが、私も死にたがりだ。
社会の無情さに嘆いて、自分の至らなさに踞って、神も仏を存在しない世界で、どうして「生きよう」と夢を見ることができようか?
自分の無能さに辟易している私は、死んだ方が世の中のためになる、と殊更に主張する。
私が死んだ方が良いのは、自明とすら考える。
では、何故、死なないのか?
それは、死んだら死んだで、社会に迷惑がかかるから。
死体の処理、税金や事務的な書面の手続き、荷物の整理などなど…背筋が凍るほど多大な迷惑だ。
それから、死ぬ事自体が面倒だ。
先述したドアノブのようなお手軽な方法はあれど、縄を用意する、遺書を書くなど、死ぬにも準備が必要で、それを考えると面倒で、死ぬのが億劫になる。
さくっと死にたいのだ、どうせ死ぬなら。
「さくっと死ぬ」という意味では、電車の飛び込みは理想だ。
しかし、電車の飛び込みは、首吊り以上に社会に迷惑をかけるため、論外だ。
どうせ迷惑をかけるのなら、盛大に迷惑をかけてから死のう、と考えて、一先ず100歳を目指すことにしている。
死ぬのは怖くない…と言うと嘘になるが、誰かに刺されてしまっても冷静に死を受け止められる自信はある。
多少「どうしよう、これ?」とか困惑するだろうが、意識が失うまでタイムラグがあるから、その間で気持ちの整理をするように、何とかする。
それから、今まで自傷行為をしたことがない。
考え過ぎで脳がかち割れるような痛みを覚えたことはあるが、私の肉体を物理で傷付けようとはしなかった。
さくっと死にたい私は、長い時間をかけて自分の身体をわざわざ苛める行為自体が面倒だ。
また、自傷行為は「自身の存在の確認のため」と読んだことがあるが、「私」を追求している私には、存在を思考によって捉えようとしているので、必要性がない。
死にたがりのくせに、今まで死のうとしたことがない事実に、「私は死にたがりだ」と自称することの説得力は皆無だろう。
自分自身の気持ちさえ疑わしいが、「ああ、死にたいな」とは常に本気で考えている。
さて、そんな私から見たSNSでの「死にたい」発言に立ち返ろう。
繰り返すが、死にたいと宣うなら死ねば良いではないか?
それをわざわざSNSに投稿する理由は何なのか?
様々な理由があるだろうが幾つか理由を考えてみた。
一つ、構って欲しい。
死ぬ死ぬ言えば、人生に前向きな方々が「あなたが死ねば悲しむ人がいる!」とか「生きることはそれだけで尊い!」とか言って構ってくれる。
だから、「死にたい」とSNSで投稿するのだ。
最初は効果があるだろうが、頻発するとだんだん構ってくれなくなる。
もし、構って欲しいなら、「死にたい」発言は切り札にした方が良い、と考える。
二つ、無自覚な言葉のチョイス。
「死にたい」という言葉を何となく書いて、特に読み返すことなく、そのまま投稿。
それに近似する言葉を使ってしまう人が、意味もなく周りをビクビクさせている?
これは、その人の言葉の前後の文章と合わせて、よくよく読めば解決するのではないだろうか?
むしろ読み手の問題なのかもしれない。
三つ、死ぬことへの表明。
文字にすることで気持ちの固持をしようとしている。
PCにデータとして残すと言う意味合いもあるかもしれない。
「この時期から準備していたんだろうな」と、死後、死んだ事由の解析をさせるために。
だとしても、何でSNSで「死」の表明をするのだろうか?
例えば、街中で「私は自殺します!」と宣言する人に、何か助言しに行く人は皆無ではないか?
死ぬことを決めた人間の、死ぬことを止めさせた後の人生に責任が持てないのであれば、放っておいた方が良い。
本当に死にたいのなら、口に出すより行動に移した方が早い。
それこそ真性の死にたがりは誰にも言わず、ひっそりと死に逝くものだ。
「死にたい、死にたいと言っている内は死ねない」
(ライトノベル「ブギーポップのペパーミントの魔術師」にあった台詞、恐らく)
「死」を意識している時点で、「生」も強く意識してしまっている、故に死ねなくなる…だっただろうか?
つまり、言葉で「死にたい」と言っても、「どうせ、死ねないんでしょ?」と言われる訳だ。
「死にたい」という能動的な言葉に対して、それを発している人間は受動的である、とは面白い点ではないだろうか。
斯く言う私も受け身人間で、死が向こうから訪れるのを待っている節はある。
ただ、言葉にする、思考するために「死」を意識することは大事だ。
「死」のこと無しに自身の存在を確立し得ないから。
また、この発言で周りの反応が伺い知ることが出来るのは良いことだ。
即ち、人は関わりの中で、人として成り立っていることを知る訳だ。
故に、SNSの「死にたい」発言自体は否定しない。
それによって、考察し、本当の願望と向き合えるならば。
そして、本当の願望が「死ぬこと」であるならば、私は止めない。
人間は自殺が出来る種、理性で死を迎えることが可能、アクティブに死ぬことは悪くない!
ただ、わざわざSNSで何度も何度も書き込みをする行為をする意味が分からない。
本当の願望ときちんと向き合えているのか?疑わしく感じてしまう。
三度繰り返すが、死にたいと、否、死にたいと宣う暇があるなら、とっとと死ねば良いではないか?
無駄に周りを不安にさせて、どうしたい?
やはり、構って欲しいのか、そうなのか?
なら構ってやろう、程々に。
嗚呼、また糞記事を書いてしまった、死にたいわー。
あー、死にたいわー。
…まだ死にませんが。