爪切りを取っ掛かりに考えます。
両手両足の爪が伸びてきたら、パッチンと切り落としてくれる爪切り。
長過ぎる爪は剥がれる要因になりますからね。
野生の動物に爪切りが必要ないのは、固い地面を歩くから、自然と爪が削れるらしいです。
現代の便利な世の中では、固い地面をガリガリするようなことはありません。
現代においての爪は、シールを剥がすのにガリガリするのに活用されています。
あと、ネイルアートとか?
男なのでそこら辺の文化は浅慮ですが。
何事もほどほどが良いとは言いますけど。
地面でガリガリしない文明人は、爪切りは必需品でしょう。
小さいボタンを押すのにも、爪があると良いですし。
ああ、でも、今のスマートフォンは生体電気で爪では反応しない仕組み。
便利になればなるほど不必要な部分に…
そも、今の時代、便利過ぎるきらいがあります。
私は在ったら在ったで良いですけど、無ければ無いで構わないというスタンスです。
爪切りが在れば爪を切りますけど、無ければ無いで削るなりしてどうにかします。
より便利な社会を目指すことは、文明の発展に大きく寄与していることは間違いないでしょう。
ただ、それによって「昔だったら」許容できたことが我慢ならなくなったのは、より便利になった弊害ではないでしょうか?
便利さを求める人たちよ、不便さの許容する姿勢が必要だ。
もちろん、今の時代に自動車をなくせ、スマートフォンを持つな、ということではなく。
ただ、自動車がなければ何処にも行けない、訳ではなく。
ただ、スマートフォンがなければ誰とも繋がれない、事も無く。
他のことに目を向ければ、事足りるだけの話です。
要はバランスの問題です。
便利なことを許容するあまり、いざ不便になった時に。
「どうしてこんな嫌な思いをしなくちゃいけないんだ!」
と誰も悪くない怒りが湧く訳です。
より便利になるためには必要な怒りですが、それは文化の発展に向かえばの話です。
八つ当たりになれば、意味の無いエネルギーの発露になりかねません。
ならば、不便なことを許容すれば、現状で特に困ることなんて然程ありません。
文明は停滞するかもしれませんが、そんなに怒ることでもないことに気付けるはずです。
この先の未来でも私が想像するより凄い技術は発明されるでしょう。
その人たちのバイタリティに感服しつつも、凡人たる私はただその利益を許容します。
されど、許容できなかったとしても、それは私のバイタリティのなさ故なので、同時に不利益も許容することはある種の責務とも言えます。
文句だけ言っていても、世の中何一つ変わりはしない、当たり前のことです。
あー、爪切りから変な方向に行ったな。
言葉の不便さ、これもまた許容しましょか。