蛍光灯を取っ掛かりに考えます。
夕方、薄暗くなる空の下、ぽつりぽつりと家に明かりに灯す蛍光灯。
部屋の蛍光灯の紐を引っ張ってパッと明るくなると妙な安堵感があります。
蛍光灯と言えば、オフィスの天井にはめ込むのがパッと思い付きます。
四角いコンクリートに白い光、無機質な感じを受けます。
深夜になれば、人気のなさと薄暗い感じが加わってより無機質さが際立ってきます。
まあ、それはそれで趣があるかな。
フィラメントの部品に京都八幡の竹を使用したのは有名です。
ただ、どうやら白熱電球自体の発明は別の人物とのこと。
エジソンは「白熱電球の発明者」と言うより「電灯の事業に成功した人」が正しいみたいです。(Wikipediaより)
でも、エジソンの功績は大きいことには変わりはなく、偉大な人物には違いないかな。
それから、蛍光灯の取り換え。点滅し始めたら交換せざる得ないです。
今日、職場で蛍光灯の取り換えをしたんですけど、苦労しました。
いや、蛍光灯の取り換えはしたことありますよ?
ただ、外したのが32型。総務にあったのが40型。
更に東芝、三菱と2種類あって。
自分の家のを換えるときは、同じのを買っておけば問題ないでしょ?
こんなん迷うわ…一旦戻って、周りの蛍光灯の種類を確認して、東芝の40型で問題ないようなので、それで取り換えました。
ええ、無事点灯しましたよ。いや、32型と40型の差は怖くない?内心ビクビクしてましたよ。
まあ、そうさな。
あえて、言い切る。
選択肢の多さは迷惑だ。
…何か誤解されそう。言い切っちゃているからな。
まず、選択肢が多いこと自体は良いです。
出来うる手段が多ければ、求める結果に近づく訳ですから。
ただ、選択肢が多いことによって、最善が何れなのか、解らなくなるのではないでしょうか?
今回の蛍光灯で言えば、最初から1種だけ置いていれば、そも迷うことはありませんでした。
これは求める結果が既にあったから。取り換える蛍光灯さえ手に入れば良かった訳です。
人生に於いての選択肢は無限にあるでしょう。
どのように生きても構わない、選択肢の多さはそう言う意味でも大きいでしょう。
しかし、一人一人の最善の選択肢となると話は変わります。
何せ、一人一人の個性、能力、寿命等々その人の持っている才能が全てです。
その限りある才能を生かせる最善の選択をしなければなりません。
ここで、「君には無限の可能性がある!」と言われれば、そんな気もしますが、実際は有限の中にあることを忘れてはなりません。
そうすると、多過ぎる選択肢はあっちもこっちもと惑わすだけ、迷わすだけです。
そう、迷い惑わす、つまり迷惑です。
潜在的に隠されたポテンシャルがある人もいるでしょう。
天賦の才を持って生まれた人もいるでしょう。
しかし、自分の背丈を知って、最善を選ぶ上で他の選択肢は横道に逸れることになります。
まあ、迷うこと自体も悪いことじゃないんですけどね。
横道には横道の良さがありますし。
悩んでいるときには選択肢は「迷惑」な存在ですけど。
ぶっちゃけ、見切り発車な人生な私には人様に迷惑しかかけてないので大きい声では言えませんが…
ただ、自分で選ぶ事柄より相手に与えられる選択が多いことは良いでしょう。
客観的に見れますから、自ずと最善の選択を選べますし。
相手に与えられる方法が逆に少ないと最善から遠退きますし。
何だろね。選択肢が多いのも迷うのも全然良いんだけど。
やっぱ労力は少なくしたい、と思うのも事実。
だから、選択肢が多いのは迷惑、と考えちゃいます。
まあ、蛍光灯の紐を引っ張ってパッと明るくなるように閃きがパッと出てくれば…
やはり、才覚は必要だな…私の選択肢はまだ多いよ…
何が言いたいのか解らない?私もです。