ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

それでも、私は温い「逃避」をします。

逃避を取っ掛かりに考えます。

 

LOって雑誌を知っていますか?

知らないなら、正常です。

端的に言えば、18禁のエロ本です。

補足するなら、特殊な性癖の人向けの。

 

何でそんなの知っているの?と言われれば…二次元が好きだから?

語弊があるような…?こちらが大丈夫でもあちらがアウトならこの記事も消さなくちゃいけないような?

いや、嘘は良くない。私は二次元が好きだから、こういう雑誌を知っている。ただそれだけ。

5個あるシュークリームの内、一つだけカラシ入りがあるロシアンルーレットをしているようや疑心暗鬼ですが、4個はセーフだし、引き当てても良いやと達観するような自暴自棄で書いていきます!

 

さて、そのLOですが表紙や自社広告のデザインが秀逸です。

儚さを讃えたイラストやコピーは芸術の域です。

偶にそれをまとめたスレッドが上げられる、らしいです。

それで、最近そのまとめを見ていたら、ふと気になるコピーが目に入りました。

 

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「逃避」なんて生易しいものではない。少なくても僕は少女に「救済」され生きている。

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ほう…「逃避」はまだ生易しいか…日々「逃避」している私には無視できないことです。

「頑張らない」と三度三度唱えて、現実から「逃避」しているは未だ温い、ということですからね。

Facebookで不用意な発言をして社会から拒絶された私です。空虚な私がまだ「絶望」するには早いと云うことなのか?

これはきちんと考えなければなりません。何を持って「救済」なのか?

 

まずは、文章の意味を汲み取らなければなりません。

LOは特殊な性癖のことを取り扱ってます。

ここで言う「逃避」とは現実では実行できないことを想像することです。妄想して自慰行為することですね。

しかし、その「逃避」という言葉では生易しい、と。

 

例えば、現実で「私はこういう癖があるのです」と言ったらドン引きされて忌避されることでしょう。

キリストがゴルゴタの丘に向かって自らを磔にする重い十字架を背負って罵声を浴びせられながら歩くような、そんな癖がある訳です。

 

なら、別のことで代替えすれば良いじゃない?と言う人もいるでしょうけど、代替えができるようなことでは決してありません。

時間と共に変わっていく価値観の中で、変わらない根っこの部分の代替えがあるのなら、それはもう別人に成り果てることでしょう。

色々と見て、聞いて、考えて考えて、そうした中で残った癖。

川の砂を何度も何度もさらってザルに残った微量の金のような、残った癖。

 

その残った癖が醜悪で気持ちの悪いもので、到底理解が及ばないことだったら?

現実に行動に移せば、間違いなく法の裁きが待っている現実があります。

思考は人の自由?確かにそうでしょう。しかし、思考したことを言葉にした途端、危険な思想、異端な人間として弾圧されるのです。

何故、そうした想像さえ許してくれないのか?それは、そうした思考をすること自体が恐怖の対象だから。

だから、口にさえ出すのを躊躇わせる。自分を偽るしか守る術が存在しないのです。

 

そうした中、世間の重圧に耐え、発刊されるLOに「救済」されている人がいる。

深夜の赤信号で青になるまで待つようにひっそりと。

居酒屋横町から少し離れたところで赤提灯が灯るようにひっそりと。

間違いは起こすなよ、と厳しく言いつつ。想像は自由だとひっそりと言う。

 

自分自身さえ否定して、それでも誰かに許して欲しいと願っていたところに。

想像なら許されるならば、それは「救済」されたと感じるのでしょう。

 

それならば、私の「救済」とは一体なんなのだろうか?

誰かに許されたいのだろうか?

私もこの怠け癖を治そうと奮起した時期がありました。

 

無能であることが嫌で、とにかく色々と臨んでいました。

変わろうと必死でした。

それでも、私の根っこの部分は変わりませんでした。

そこで私は「逃避」することを選択しました。

 

私の怠け癖はどうしても変わらない。

だから、幸せな「逃避」をして何がいけないのだろうか?

逃避し続けた先にある未来はきっと甘美に違いありません。

死ぬまで逃避ができたら、それは美しいでしょう。

 

しかし、社会はそうした「逃避」さえ許してくれないのではないか?

何故なら、私がFacebookで書いた内容で私は仕事を失いました。

次の職場で「どうして辞めたのか?」聞かれたら、私は正直に答えるでしょう。

そうした場合、きっと私は採用されることはないでしょう。少なくとも正社員の道はないと考えてます。

 

自分の思考に嘘を吐くくらいなら、馬に蹴られて肥溜めに頭から突っ込んだ方がマシです。

思考に嘘を吐かない、と言うことは社会からの拒絶や忌避をされ続けるでしょう。

ならば、私の「救済」は何処にもないということです。

それでも、私は温い「逃避」をします。

畳の上で息を引き取るまで。

 

これからもずっと。間違えた思考を何度も。

そうして空っぽな私に何かが残るまで。

 

まあ、取りあえず、こんなとこかな?

結句、私には「救済」は勿体ないです。甘っちょろい人間ですから。

 

新年早々、失礼しました。