許容することを取っ掛かりに考えます。
履歴書をせっせと書いています。
しかし、どうにも「やりたい!」と熱意が出ないのでいい加減になります。
特に志望動機は今の私にはないので、何も書けずにただただ困り果てています。
それでも仕事を探さなくてはならないので、黙々と書きます。
仕事は「やりたい!」と感じなければならない、と考えてました。
仕事のやりがいがなければ、叱られた時や失敗した時に立ち直れないから。
しかし、今の私には「やりたい!」と感じる仕事がありません。
なら、仕事にどう向き合えば良いのか?気持ちが塞ぐような錯覚します。
今まで頑張らなかったから、頑張り方がよく分からないのです。
丹田から力が抜けていくような踏ん張りの利かなさがあります。
望んで下らない人生を歩んできた、それだけなのですが、急に虚しさで胸に込み上げてきます。
怠けたツケの多さに愕然として、支払える気がしません。
もう、何もかもが面倒です。
何もかもが面倒で、最悪です。
なら、何ができるのか?のたうち回るしかないでしょう。
岸に釣り上げられた真鯉のようにその場でみっともなく暴れるだけしかできそうにありません。
愚図で無能な私は臆面もなく書き連ねます。
ニュースで「生活保護なめんな」ジャンパーが話題になってます。
不正受給は許さない、のメッセージに不快に感じる方がいた、そういうことなのですが。
「身内の中で意識高揚のために作った」と職員に「身内の中だけなら別に良いけど、それを外に着ていくのはモラルに欠ける」の発言がちょい分からない。
私が辞めた理由はFacebookで不用意な発言をしたことですが、宣告された場で「Facebookの投稿に規制をかけていなかった」点を上げられていました。
身内なら許されて、公共の場だと許されない。
言っている内容は間違っていないのに?その区別は一体何なのでしょうか?
例えば、身内にも発言してはいけない、となるなら分かります。窮屈でしょうが。
逆に公共の場でも発言して良い、でも分かります。傷付く人はいるでしょうが。
黙することもできず、信念を徹すつもりもないのはどういうことか?
人が増えると許容できる範囲が狭くなるのかもしれません。
一人ひとり、許容できる分を許容すれば良いと考えてます。
しかし、一人ひとり許容できる範囲はまちまちでそれが統合されていくと、許容できる重なりが多くなり狭くなるのでしょう。
私は理解ができなくても許容しようと考えるのです。
その中で思想が合わず、許容できないと言われるのは、悲しいと感じますが、多くの人を尊重しようとすれば当然の結果でしょう。
こう考えると、私は少数の意見を許容することを目指してきましたが、社会は多数の意見を尊重することを目指しているのでしょう。
また一つ発見です。社会と私のベクトルの違いが浮き彫りになりました。
世の多くの人は多数の意見を尊重しようとしているのでしょうね。
これが民意、政治思想の観点でも私の思想は少数な予感です。
平均にすることではなく、特化することをずっと考えてきた気がします。
私の現在の状態は、忠言を聞こう=多数の意見を尊重しようと言うベクトルの違いから来る思考に翻弄されている、ような?
いざ飛び込むとうずくまって、ここから消えてしまいたくなります。
私のような異分子は多数にとって排除すべき事柄でしょうけど。
排除しようと実際に働きかけるようなことは決してなく。むしろ「相手にされてない」だけ。
邪魔でさえない。靴に入る小石や目に入る塵さえ「邪魔」だと認識されているのに。
価値無価値以前に存在を認められていません。
ただ私は私の思考を追究しているだけ。
社会に還元される事柄はなく。存在を認められておらず。
それらすべての事実を許容して。
それでも尚不安になるのは、信念がぼやけたから。
一から私を作り直す、今はそういう期間かもしれません。
書き連ねたら、多少はスッキリです。
弱音は常に吐いていきたいです。むしろ、弱音しか吐きたくない!
怠ける、うだうだする、頑張らない。
そんな私で在りたい。
五里霧中、抜けた先に道は有るのか?
皆さんの意見が尊重されますように。