閑話休題。
昨日は明らかなクソ記事でしたね。
あそこまで中身のない記事も中々ない気がする。
今までで一番当ブログに相応しい記事で自慢の記事になりそうです。
読んでもらうことが目的ではなく、書くこと自体が目的の当ブログです。
チラシの裏の駄文を不特定多数に晒す高度な行為に酔いしれてます。
さて、Twitterで拡散する意味があるのか?とふと考えまして。
当ブログは自己満足の極み、読者がいることは重々承知しつつも根っこは変わらず好き勝手な暴論の数々。
公園の砂場で一人黙々とトンネルを掘るのに従事しているが如くです。
理由?特にないです。
強いて言えば、とりあえず寝てから考えようかを繰り返したら、1週間くらい放置してます。
仕事を辞めてから、八割方引きこもりになっています。
昨日の記事のような投げやりなのが今の私です。
それで、Facebookは一応置いておきます。
理由?特にないです。
強いて言えば、FacebookとTwitterの違いってよく分からないし、より分からないTwitterから考えようかな?ぐらいの認識です。
Facebook…最近放置してるな。全く気が向かない…
ちょっと外に出なさ過ぎかな…内向きの性格が顕著なこの頃です。
さて、青い鳥について話しますか。
チルチルとミチルは幸せを見つけられるのでしょうか?
じゃなかった。Twitterですね。うっかり幸せについて考えてしまいました。
改めて、不特定多数の人と繋がるSNSですがTwitterは特に「拡散する」ことに特化している気がします。
mixiやFacebookは友達、知り合いから輪を拡げるので身内というか、クローズドの一面があります。
Twitterは興味があるものと繋がっていくイメージで、オープンですね。
それで、「拡散する」と言うことは、多くの人に知ってもらうことが前提にあります。
そうすると、当ブログに当てはめると「詰まらない」ことを是とすることを多くの人に知ってもらうこと、となります。
しかし、昨日のクソ記事を読むのは私は楽しめますが、他の人はそんな訳ないでしょう。
また、基本共感されない思考だから、クソ記事はクソ記事のまま永久に眠るのが普通でしょう。
つまりは、「詰まらない」ことを是とすると「相手にされない」訳です。
そうなると、「相手にされない」のにわざわざTwitterで「拡散する」のは意味があるの?いや、ない(反語)
むしろ、詰まらないことを拡散とか、傘がないのにゲリラ豪雨に見舞われたような悲惨なことに。
しかし、「相手にされない」訳だから、適当なことをほざいても気にされません。
「相手にされない」故に過激なことを書いてもスルーされます。
何かしら相手にされる、例えば当ブログが面白い記事を書いたとしたら、他の人にとって有益でも、私の追求としては正しいのかは疑問です。
つまりは、「相手にされない」からこそ「詰まらない」ことが書ける訳です。
大いなる矛盾が当ブログにはあるのです。
まあ、でもTwitterの名称は「鳥のさえずり」から来ています。
鳥のさえずりは気にしなければ日常の一コマで流されます。
鳥のさえずりに癒しを求める人は、「鳥のさえずり」に意味を見出だしたからで、普通は「鳥のさえずり」はピーピーなる音でしかありません。
「詰まらない」ことと私が見出だしたからで、普通は「詰まらない」ことは単なるゴミでしかありません。
意味がないことに意味があるという矛盾のスパイラルが当ブログの真骨頂でしょう。
故に「拡散する」ことは意味がないですが、意味がないからこそ意味がある。
「詰まらない」とは何と業の深いことだろうか。
内容がない、オチも山も意味もない。
ただ、自分の欲求である私の追求のために記事を書く。
あれですよ、自慰行為は意味あるの?と言うことですよ。
別にマスターベーションをしなくたってね、生きていける訳だし?
ゴミ箱に増えるだけで他の人には何の有益にはならないし?
でも、何の有益にもならないけど、満足はするじゃないですか。
当ブログはつまりは、そういうことです。
他人の自慰行為を見たいか?と聞かれたら私は遠慮したいですけど。
矛盾している?それさえもこのブログは内包しているのです。
何というモンスターブログを作ってしまったのか…震えが止まりません。
他のブログを運営されている方は、情報を共有したい、思考を拡散したいと考えているでしょう。
そういう欲求とは一線を画するのが当ブログです。
ある種特化していますね。明後日の方向ですけど。
PVはこれからも伸びないでしょうし、それで良い気がします。
逆に1日PV100(当ブログにとっては途方もない数字)になったら世の中が心配になります。
その時はその時の矛盾を楽しむでしょうけど。
何はともあれ、これで良し。