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ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

何が役立つ才になるかは、より多くの短所を知る所から始まる。

〇〇を取っ掛かりに考えます。

才能の捉え方を取っ掛かりに考えます。


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スポーツジムにあるダンベルのように重く、身体は畳の上に置かれてます。

それでも、クイズ番組の難関問題を5秒で解くように冴え渡り、脳は働いています。

最近は短文な記事ばかりでブログと名乗るには恥ずかしいです。

今日も日向で寝転ぶ猫のように気だるく、人差し指で書いています。

 

私には人より足りないことが多々あります。

怠け癖、大雑把、悲観主義、片付け下手、KY、コミュ障、粗忽、無精者、後回し癖、否定癖etc.

一言で「無能」です。これだけ役に立たない人間もそういないでしょう。

そんな私が不届きにも才能について書こうと言うのですからお笑い草かもしれません。

私に言わせると「足りない」からこそ考えざる得ない事柄で、笑われようとも書かなければなりません。

 

以前、当ブログの記事で才能について書きましたが、不完全燃焼な部分があります。

回転寿司屋で数枚の寿司を食べて薄くなった醤油に追加するように少し足します。

時と場合と状況によって、役立つ才能がある。 - ネガティブ方向にポジティブ!

 

伊原西鶴は「人は才で活かされる」と言ったらしいです。

伊原西鶴は多才であったらしく、才能ある人故の発言かもしれません。

しかし、無能な私には別の意味で重宝しています。

それは、「人は才によって活かされる」のであれば「才が無ければ死ぬより他がない」と考えたからです。

 

しかし、前述した通り、全うな感性だと私は社会不適合者の無能です。

何か役立つ才、社会が発展する又は文化を熟成させるような才はありません。

一昔ならば、向いていることが才能の一端を担うと断言できましたが、私の無能が向いていることを否定しました。

具体すると、前職は向いていると考えてましたが、不用意な発言で退職の件です。

 

映画「4分間のピアニスト」でピアノ教師のクリューガーが主人公に対して「(中略)人には成すべき使命がある。今の私は何をすべきなのか。恐らく、耐え抜くことね。でもあなたは、あなたの使命は火を見るより明らか。演奏することよ」と語ります。

ピアノの才能がある主人公に対しての憤りも込めた勧告です。

何故、「憤りを込めた」と言えば、主人公が暴力的で刑に服しているような人間で、散々やらかしているから。

圧倒される才能であっても、他の欠如で台無しになることがあることを示唆しています。

 

凡人である私には、誰かに救い出されるほどの才能がないから余計に悲惨です。

死にたがりの私ですが、「無能」だからこそ感じる「死」があります。

しかし、無能を免罪符に死を選べるほど「私」を知っていません。

私の追求をするならば、無能なら無能なりに生きなければなりません。

 

故に、才能の捉え方を変えなければなりません。

 

蟻は女王蟻を頂点に社会を形成してますが、その中には働かない蟻がいます。

全体の2割ほどが働かない蟻らしいのです。

何故、働かない蟻がいるかと言えば、働いている蟻が働けない時に替わりに働くためです。

例えば、巣穴に水が大量に入り、働いている蟻だけでは対処が追い付かず万事休すかと思う時、働かない蟻が主導して対処するそうです。

公園の巣穴に如雨露で水を流して遊んだ子どもが居たら、その瞬間働かない蟻は働いています。

 

ネットワークビジネスの勧誘にあえて乗って某ファミリーレストランに行った時、「短所を長所に言い換える」天才がいました。

彼にかかれば、どんな短所も長所に言い換えてくれました。

働かない蟻の「怠け」は「いざと言う時発揮するため」と言い換えるならば。

才能と言うものは、時と場合と状況によって替わるのでしょう。

 

実際、私の「怠け癖」は夜勤において「昼間でも休める」ことに繋がりました。

故に考えます。

あえて、言い切る。

 

何が役立つ才になるかは、より多くの短所を知る所から始まる。

 

先に上げた私の短所は、言い換えるならば。

自分に正直、おおらか、多面的に見ようとする、細かいことに拘らない、自分を曲げない、黙するは銀、愛嬌がある、腰を据える、よく吟味する、あらゆる可能性を考慮する…

となるのでしょうか?自分で言うと気色悪いです。ナルシストか。

第一、無理があるのもありますし。まだ、その時でも場合でも、状況でもないだけかな?多分。

 

皆さんの良さが社会に役立ちますように。