5.夜明け前に星は消えた
また元の場所に戻った。
僕は自分が寝ていた所の側まで行く。
足元は落ち葉や雑草があり、そこに僕が居た痕跡はなかった。
僕はミカヅキに聞かなければならない。
彼女は恐らく、この不可思議な事の顛末を知っている。
「どうして、ここに?」
「ここは迷い人の入り口、人の世の境目、魔の力の終わり」
「…君の言っている事は僕にはよく分からないけど、ここに戻ったのには理由があるよね?」
「そう、あなたはここに戻らなくてはならなかった」
「どうして?」
「元の世界に戻るために」
「うん…それで、カケルはどうやって連れ戻すの?僕はどうすれば良いの?」
「…まだ、思い出せない?」
何を?
僕は何を忘れていると言うのだ?
今、カケルを助け出す話をしているのではないのか?
「…今日のお弁当は、何だった?」
「え?」
「今日のお弁当のおかずは何だった?」
「…それは、今聞かなくてはならないこと?」
何で弁当の話になったんだ?
僕には全く分からない。
でも、ミカヅキは悪ふざけをしている訳でもなく、黄金色の周りを深い黒で縁取った眼で僕を見ている。
「はい。今、答えて」
「…今日は確か、からあげに、ミニトマトと…あとポテトサラダに、ひじきに海苔ご飯とその上にめざし、だったかな?」
「それは何時見たの?」
「何時って朝…ん?」
僕は何時見たんだ?
でも、見た記憶がある。
何時だったか…?
よく、思い出せ…そう、家から出て、自転車に乗って、それで、高木神社に寄って、それで…それで、そこで僕は弁当を広げたんだ。あれ?でも、確か僕は家に忘れたとカケルが…カケル?何だ?かける?弟?え?そんな、でも、違う。何が?どうして?ウソだ、いや、でも。まさか、間違いだ。だったら?何時から?ない、カケルは、だから。え?僕は今、何を?でも、それが、何で?
僕は、恐ろしく混乱しながらも一言言った。
僕は今どんな顔をしているのか分からない。
自分の中にあったカケルが得体の知れない異物に変わっている。
「…カケルって、誰だ?」
僕には、弟なんて居ない。
でも、じゃあ、カケルはダレだ?
ミカヅキは変わらず僕を見ている。真っ直ぐに、真っ直ぐに…
彼女の瞳に僕は今、どう映っているのだろうか?
さっきまで僕と一緒に居た、『カケル』と名乗る、正体不明の存在に、僕は弟と思い込んでいた。
どうして、そんな思い込みをしたのだろうか?
いや、思い込まされたのか?
冷静になるにつれて薄い紙で指を切るような怖気に肌が泡立ち、震えが止まらなくなりそうだった。
不意に両手を温かく包まれた。
何時の間にか固く握られた僕の両手にミカヅキが手を添えたことが分かった。
「僕が、何をしたっていうんだ?」
鬱蒼とした木々、木の化け物たち、出られない鳥居の中、『カケル』と名乗るモノ、朱い何か、それらすべてを僕は知らない。
青信号を渡っていたら、トラックに跳ねられてしまうような理不尽さに僕は泣きたかった。
声を出してみっともなく泣きたかった。
それでも、一寸前でぐっと堪えると、ミカヅキの顔を見た。
「教えて欲しい。僕は、何に巻き込まれたんだ?」
「あなたは、高木神社に立ち寄った」
ミカヅキが淡々と語り始めた。
その透き通った語り声に僕はやはり彼女のことを『美しい』と思った。
「あなたは、高木神社でお弁当を食べた。何時ものように」
そう、僕が何時も高木神社に立ち寄るのは、早弁をするためだ。
学校で何時も食べるメンバーでは、購買でパンを買っていて、僕だけが弁当だと購買に行かない分、疎外感を感じそうで嫌だった。
授業中に食べている連中もいるが、僕には憚れた。
弁当を捨てる、と言うこともできなかった。
だから、朝早くに高木神社に立ち寄って、弁当を平らげるのが、僕の日課になっていた。
「そこに、良俗を乱す人間が現れた」
良俗…?
あ、そうだ。
柄の悪い人が5人、高木神社に来たんだ。
滅多に人が来ない場所だし、周りをぐるっと木々に囲まれて、外からは様子が伺えない。
僕のような隠れて食べる人間には打って付けだが、それは世間一般で言う不良にとっても同じ事だろう。
僕からはよく彼らが見えたが、彼らからは僕は茂みに隠れていて見えなかったろう。
「彼らは煙草を吹かし始めた」
学生が人に見られたくないことと言えば、煙草の喫煙だろう。
学校のトイレや同じ仲間の家などで吸っているとは思うが、神聖な神社でしかもこんな朝早くから吸っている様子に呆れたのを覚えている。
「彼らは近くに居た猫を虐めた」
そうだ、彼奴ら、猫に小石を投げ始めたんだ。
猫はよくこの高木神社で見かける綺麗な黒猫で、僕の秘密を知っている友達だ。
「あなたは猫を庇うと、彼らは怒り、あなたは殴られた」
猫に小石を投げるのは止めろと言った。
急に現れた人間に最初困惑した様子だったが、相手が一人で、喧嘩も強そうに見えなかったのだろう。
さながら暴走するベンガルトラように気炎と咆哮を上げながら顔面すれすれまで近づいてきた。
僕は、普段喧嘩なんかしない。
無骨な掌が僕の肩に置かれたときは、思わず肩が跳ねた。
怖かった。
でも、それ以上に許せなかった。
僕は、猫に小石を投げるのは最低の弱い奴がすることだ、と言った。
そうしたらいきなり殴られて…
「あなたは倒れた」
そう、僕は倒れた。
その後の記憶はない。
そして、目が覚めたら、異空間である。
話の前後がまるで繋がらない。
浦島太郎になったような気分だ。
いや、僕が倒れた、つまり、僕の意識がない間に何かがあった、のか?
彼女に視線を戻すと、僕が飲み込むのも待っていたようであった。
彼女は再び語り始めた。
「彼らは、声をかけられた」
「彼らは、ソレを招き入れた、神の領域に」
ソレ…ソレとは何だろうか?
高木神社の外から来たであろうソレに、彼らは何も感じなかったのだろうか?
「ソレは…ただ、遊びたかっただけ」
「ソレは、遊び相手が居なくならないようにした」
彼女は少し目を伏せながら、淡々と続ける。
「ただ、彼らは遊び相手をすれば良かった。ソレは彼らを…何れは帰してくれたはず」
「だけど、良くないことが起きた」
彼女はそこで一度言葉を切ると、息を深く吸い込んだ。
「彼らの煙草が雑木林で火の手を上げた」
「あなた達の言う、神が怒った」
「神は、神隠しをした」
「彼らとソレは閉じ込められた。…あなたと共に」
彼女はそこまで少し早口で話すと、そっと僕の手を握り直した。
それは知らない商店街で迷子になった幼子のあやすようだった。
目頭が熱くなり、僕は眉間に力を入れた。
「そして、彼らは神の怒りを知った」
嗚呼、聞きたくない。
彼らがどうなったかなんて僕は知らない。
知りたくない。
だけど、否応なしに想像してしまう。
彼らは、この鬱蒼とした木々で世にも恐ろしい怪物と出くわしたのだろう。
そして、きっと、彼らは二度とこの異空間から出ることは叶わないだろう。
「彼らは、運がなかった、とても」
そして、僕の吐き気を催すようなおぞましい想像を首肯するように、彼女はためらいがちにけれど、はっきりと言った。
「あなたも、運がなかった」
『運がなかった』、僕が居る意味不明な空間、意味不明な物体、意味不明な現象、それらすべてを『運がなかった』と。
僕は猫を助けようとした。善行をしようとした。
それなのに何故僕はこんな所に居るのだろう?
『運がなかった』、彼らも僕も『運がなかった』。
行き場のない怒りや悲しみが頭からつま先までぐるぐると渦巻きながら僕の身体中を駆け巡り、底冷えするような恐怖が僕の身体を覆った。
何で僕なんだ、何で…
「だけど、あなたには、私が居る」
だけど、僕の両手のぬくもりがねばつくようなベールを通り抜け、荒れ狂う濁流を越えて僕の心の臓に届いている。
そのぬくもりが、僕のなけなしの勇気を奮い起こしてくれる。
「大丈夫、必ず戻れるから」
もしかしたら、彼女もカケルと同じように僕を騙しているのかもしれない。
だけど、とても僕にはそう思えなかった。
彼女の手や目や声に僕を案じている、そう感じた。
いや、信じ込もうとしているだけかもしれない。
彼女が、ミカヅキが僕には最後の希望だった。