ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

犬の思考する「私」と人間の思考する「私」は別種だ。

犬は「私」について思考するだろうか?

 

私は、「私」について思考しています。

「私」の追求が無能な私の生き方です。

下記のリンクは私が今までした「私」の追求の考察です。

uenokoeda.hatenablog.com

uenokoeda.hatenablog.com

uenokoeda.hatenablog.com

 

掘り下げて掘り下げて、まだ掘り下げて。

求道者として生きていくのも大変です。

と言っても最近は仕事に追われてとっぴんしゃんな感じで、「私」の追求が疎かになっていました。

上記リンク以外でも内面の追求記事を書いてますが、久しぶりの思考記事でサッカー日本代表がゴールを決めた時のサポーターのようにテンションが上がっています。

まあ、でも、さらっと書いてどんどこしょっとします。

 

さて、最後に思考した時は、どうして私は「私」を追求するのだろう?と考えました。

しかし、どうにも答えが動き回る子どもを撮影しようとした時のピント合わせくらい定まりません。

今は自動でフォーカスされるか?私の場合は変な拘りで手動でやろうとしているようなものです。

神などと言う超越者を持ち出して、ぼやけた答えに行き着いた間抜けです。

 

ならば、視点を変える必要があります。

思考するモノを「人間」以外に求めてみます。

即ち、冒頭で掲げた「犬」は犬自身の在り方について疑問に思い、思考するかどうか?

 

そも、思考とは何か?まずは大体の概要を書いてあるWikipediaを参照します。

下記の引用は、Wikipedia冒頭の記述です。

思考(しこう、Thinking)は、考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動である。広義には人間が持つ知的作用を総称する言葉、狭義では概念判断推理を行うことを指す。知的直感を含める場合もあるが、感性や意欲とは区別される哲学的には思惟(しい、しゆい)と同義だが、大森荘蔵は『知の構築とその呪縛』(p152)にて思考と思惟の差について言及し、思惟とは思考を含みつつ感情なども包括した心の働きと定義している 

 

まず、思考とは、「考えや思いを巡らせる行動」であるということ。

具体すると「結論を導き出すなどの何かしらの一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法などを模索する精神の活動」と、あります。

 

「何かしらの一定の状態」とは、この場合は「私が「私」を深く理解している状態」であり、そのための模索をしています。

では、犬は思考をするのでしょうか?

 

例えば、「結論を導き出す」と言うのは、犬で言えば、「おすわり」や「お手」などの芸をすれば餌を貰えることを指すのでしょうか?

いいや、違うでしょう。

犬は「おすわり」や「お手」をすると誉められて餌を与えられるが、その試行錯誤をしているのは餌付けている人間の方です。

犬自身が「餌を貰えるという状態」にするために「筋道や方法を模索」した結果ではありません。

 

なら、山奥で生きている野犬が「獲物を食べられる状態」はどうでしょうか?

この場合は、思考していると言って良い、と考えます。

野犬は「獲物を食べられる状態」にするために犬自らが「筋道や方法を模索」します(縄張りを作る、集団で囲って狩りをするなど)。

 

では、ペットである犬と野犬の違いは何か?それは自立しているかが重要と考えます。

ペットである犬は人間に依存しているため、犬自身が思考して「餌を食べられる状態」に持っていく必要がありません。

それに対して、野犬は生きていく為には、野犬自らが思考しなければならない状況下に置かれているからです。

 

ある種の隔絶された、閉鎖された状況だと、思考するのでしょう。

そう考えると、私が「私」について思考するのは、私がぼっちだから。

人間社会から隔絶、閉鎖された状況に置かれて、私が思考をし始めます。

今、思考ができていないのは、人間社会の歯車に依存、包括していて、思考をする必要が日常の中から追い出されているのでしょう。

思考とは、内面へ向かう行為ではないでしょうか。

 

話が逸脱しましたが、犬が「何かしらの一定の状態」になるには、閉鎖された環境に置けば思考するでしょう。

 

では、犬はどのように思考するのでしょうか?

「思考」とは「言葉」にできなければ、「思考」していないと同義とコピーライターが言ってましたが、犬の場合、「人間」の言葉を持ち合わせていません。

即ち、犬は犬の言語で思考することになるのでしょうか?

 

犬が「わんわん」と考えて「わんわん」と模索し、「わんわん」と何かしらの一定の状態に達しようします。

この時、犬にとって全ての「わんわん」は全くの別物であり、犬自身に置いて「わんわん」は意味のある言語です。

 

ただ、「わんわん」の幅は恐らくそれほど広くないでしょう。

犬はどちらかと言えば、嗅覚で物事を判別しているように見えます。

犬の嗅覚は、人の1億倍と言われています。

人が知覚するより多くの情報を犬は嗅ぎ取っています。

自らの鳴き声、「わんわん」で思考するより、嗅覚で知覚した情報から導き出す方が早く結論に辿り着きそうです。

種が違うのだから、人間と同じスタンスで思考すると考えるのは違うかもしれません。

 

犬が「私」を思考するとするならば、嗅覚で思考すると考えるのが自然でしょう。

 

ここで、犬が犬自身の「私」について思考するか?に戻ります。

 

まず、ある種の内面へと向かわざる得ない閉鎖された環境であり。

その中で嗅覚を用いて、犬自身が「私」へと向き合う状態。

そのことはあるでしょうか?

 

前提として、私は犬は思考をすると定義しています。

また、犬自らの独自の思考方法もあるとしています。

 

犬が「私」について思考するということはポジティブな面ばかりではなく、ネガティブな面と向き合っているとも言えます。

じっとしていた犬が、突然「うわおーん」と鳴きながらゴロゴロし始めるか?

または、急にハイテンションになって池の中に飛び込んで、出てくる時はテンションがた落ちでずっくらむっくら歩くか?

…何か有りそうで、無さそう?如何せん、人間視点だから、「病気か?」と心配するのが先になります。

いや、人間でも同じ事をすれば、同族から「良いカウンセラーを紹介するけど?」と心配されるでしょう。

 

ただ、一つ私の中で分かったのは、「私」としての概念はやはり人間が考えたものであるでしょう。

「概念」という物自体、人間が作り出したものだから、犬の思考を人間の思考に当て嵌めるのは間違いだったかもしれません。

あえて、言い切る。

 

犬の思考する「私」と人間の思考する「私」は別種だ。

 

犬が思考する「私」は、犬の嗅覚によって形作られているでしょう。

人間が思考する「私」は、人間の言語によって形作られてます。

嗅覚での犬自身の「私」と言語での人間自身の「私」では、言葉に尽くせないほど違うでしょう。

 

…うーん、ぼやけるな。ぼやぼやだ。

しかし、野犬云々の下りで意外な発見がありました。

思考はこれだから止められません。

何かしら、一定の距離感、相手と「私」との間があるから「私」というのが意識するのかな?が今回の収穫…にしたいです。

 

もっと考えよう。足りない言葉で考えよう。そうしよう。

何はともあれ、これで良し。