ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

110

お盆が過ぎ、昼が過ぎ、太陽が雲に隠れた頃。

長野県中信のとある田舎の、それなりに車が通る農道沿いの借家に。

歳は30歳、お腹を凹ませたら肋骨を掴めるくらいの中肉中背の、詰まらない一人の男が居て。

薄明かりのダイニングルームのテーブルのパソコンに向かって、110記事目のどうでも良い記事を書いていた。

強制でも義務でもないが、「継続する」することで、自身の愚かさを律し、慰めにしている。

 

両目共に0.3以下の視力で、乱視もある私の両目は、ディスプレイの文字を追いながら、同時に、パソコンの周辺にある未だ読んでいない漫画や、空になったプリンの容器を、ぼんやりと見ている。

ほとんどの音を拾えない、機能していない左耳の代わりに働く私の右耳は、遠くで時折走る車の走行音や、鳥のさえずりや、風で舞う木の葉がコンクリートを擦る音を、そっと聞いている。

日に焼けると薄く白く剥がれた皮膚が、鉄板の上で踊る鰹節のように鼻頭を覆う私の鼻は、きっと何かの微粒子が舞う部屋に居て、しかし慣れきってしまい、ほぼ無臭に感じ、呼吸する空気の質感だけを、鼻孔に伝える。

濃い味付けで毒されて、繊細さを失われた私の舌は、歯茎に残っていた朝食べたトマトの皮を転がし、温い唾液と共に喉の奥、胃袋へと押し流しながら、朝の記憶をよぎらせる。

衣服の着擦れと掻きむしりでできた赤黒いカサブタと、てらてらとしたビニールのような傷跡を所々に作っている、私の皮膚は、私の身体から発する熱と外気の境を、数字で表さない温度という形で、私に夏と秋の境を教えてくれる。

 

「私が居る」という何の変哲もない状況を、事細かく描写するのは、中々難しい。

何の変哲もない、ただ「私が居る」という状況を、分解し、細分化し、再構築する意味はあるのだろうか?

詰まらないことを書く当ブログの趣旨、「私」の追求する上での認識の確認、思考する手順の再考、取って付けた理由であっても、意味としては成り立つ。

 

「私が居る」、ただそれだけのこと。

スグリーンの革で包まれた、クッション性のある座がある、木製の椅子に座りながら、今日も「私」を考える。

 

投稿します。