ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

「私」の境目は、「私」を見付けた瞬間だ。

「私」の境目を取っ掛かりに考えます。

 

uenokoeda.hatenablog.com

上記リンクは、当記事の補足記事だ)

 

眠い眠いとうわ言しか言わない、野晒しで朽ち果てた新聞紙のような私。

今日も今日とて、眠い眠いと独り言。

最近は、本当にそれしか言わないから、記事も眠くなるような詰まらない記事ばかり。

当ブログにとっては、見渡す限り雲一つない青い空で歌うような、清々しいことだ。

 

そうは言っても、たまには真面目に書かなければならない。

真面目に、私が興味があること、「私」の追求した内容をある程度まとめてみたい。

「私」の追求、それはそれで詰まらない記事ではある。

当ブログにとっては、水平線の彼方さえ遮る物が何一つない碧い海で祈るような、尊厳ある行いだ。

 

さて、最近、私の中で話題沸騰していること。

「私」の境目は何処から何処までなのだろうか?

「私」と「それ以外」の境目はあるのか?

そんなことを考えている。

 

例えば、指から伸びる爪。

手でも足でも、指先から伸びている爪は、私の身体から出ている。

その爪を爪切りで切れば、その爪は私の身体から切り離される。

爪切りから切った爪は、私の身体から切り落としたものだが、「私」ではない。

 

同様に、頭から生える髪の毛。

私の頭部から伸びているが、ハサミで整髪すれば、同様に身体から切り離される。

整髪して切り離された髪の毛は、同様に私の身体から切り落としたものだが、「私」ではない。

 

私の爪、私の髪の毛ではあるが、意識としての「私」は内在していない。

しかし、「私」を内在している身体を構成しているパーツではある。

それらパーツがなければ、私の身体は構成できず、「私」を内在することができない。

 

構成するパーツの観点から、私の爪、私の髪の毛は、「私」を内在する上で不可欠だ。

それは、私の身体を構成する諸パーツは、私の身体、即ち、「私」が内在する意識の諸パーツとも考えられる。

つまり、私の爪、私の髪の毛は、「私」を内在している。

 

では、何処から「私」であり、何処まで「私」であるのか?

または、何処から「私」でなく、何処まで「私」でないのか?

パチンと爪切りの音と共に、「私」も切り落とされているのか?

 

それが気になって気になって仕方ない。

頬の内側にできた口内炎の小さな腫れ物のように、気になる。

「私」の境目を探ってみようが、今回の思考だ。

 

爪や髪の毛は、「私」の身体を構成する諸パーツである。

なら、「私」の身体を構成する諸パーツ以外、空気ならばどうだろうか?

 

私たちは、空気を鼻や口から吸い込み、肺に送り、血液に乗せて、体内にある内蔵や脳に行き、不要な物と入れ替えて、再び血液、肺、鼻や口へと戻され、体外へと排出される。

この空気は、「私」の身体を構成する諸パーツを維持するのに必要だ。

即ち、空気は、「私」の身体を構成する諸パーツを構成する物質だ。

では、空気は何処から「私」と成り、何処から「私」ではなくなるのか?

 

「私」の身体を構成する諸パーツであれば、「私」の内在の可否は身体から切り離された時点と言えば、分かり易いかもしれない。

しかし、諸パーツを構成するのに空気が必要だが、その空気は何時から諸パーツへとなるのか?

取り込まれても、空気は酸素から二酸化炭素の入れ替え、つまり、完全に「私」の身体に取り込まれたとは考えづらい。

空気ほど、境目が曖昧なものはないだろう、と私は考える。

 

そも、空気には「私」が内在するのか、その可否から考えなければならない。

空気に「私」が内在するなら、空気が存在する空間そのものが「私」を内在するのかということになる。

空間が「私」を内在するなら、一体何処からが「他者」になるのかも視野に入れなければならない。

まずは、空気に「私」が内在した場合と、空気に「私」が内在しない場合の両観点から思考したい。

 

空気は「私」を内在しない、とした場合。

 

空気に「私」が内在しないのであれば、私の身体は「私」を内包しないことを指す。

爪や髪の毛で考察したように、諸パーツの観点で言えば、意識として爪や髪の毛は物質でしかない。

 

いや、爪や髪の毛の身体から出た諸パーツならば、「私の」、と言える。

私の爪、私の髪の毛、と注目することができる。

しかし、空気を「私の」とは言わない。

言うとしたら、雰囲気や様子を表す意味の空気であり、物質としての空気ではないだろう。

空気そのものには、「私」は内在しない。

 

しかし、爪や髪の毛で考察、空気が諸パーツの構成する諸パーツである点から、「私」を内在させる意識を作るのは、「私」の身体を構成する諸パーツのみならず、それを維持する物質の諸パーツが不可欠だ。

「私」と身体と物質を分けて考えると、空気は「私」を内在しない。

「私」の身体や身体を構成する物質に繋がりがあると考えると、空気は「私」を内在する。

 

何れにしても、「私」の境目は存在しない。

 

では、空気はある境目から「私」を内在する、とした場合。

 

前述の「私」の境目の可否は、意識の可否、物質のどう捉えるかによる。

今から考えることは、前提として、「空気に「私」は内在する」として、境目そのものに注目している。

 

思考する上で、幾つか境目を想像して、3つを仮定した。

 

1、鼻や口の何れかを通った時点(唇、鼻腔に相当する箇所)。

2、肺胞に取り込まれてから。

3、赤血球と結合してから。

 

順に考える。

 

1、鼻や口の何れかを通った時点(唇、鼻腔に相当する箇所)。

 

鼻や口、つまり、自身の身体そのものが境目だとした。

空気はそこにある時点では、空気でしかない。

私が鼻や口で吸って空気の質感を感じているその瞬間、「私」を内在する。

そして、鼻や口から吐き出され、唇から空気が離れたその瞬間から、「私」は内在しない。

 

「私」という意識が顕現するのは、「私」を意識しているからであり、「私」を意識しているのは、「私」であり、「あなた」ではない。

「私」を意識する上で、目に入る爪や髪の毛は、「私」の身体であるという意識であり、これもまた、「あなた」の身体ではない。

私は身体を絶対視するのは、「私」の意識が「私」の身体だ、という意識であり、身体の所有者は「私」であるという意識だと考える。

 

即ち、「私」という意識を意識した時点で境目が現れる。

 

2、肺胞に取り込まれてから。

 

1で考察した「私」の意識を、肺に取り込まれた時点としている。

1と共通している点で言えば、「私」の意識の有無だろう。

1との相違は、では、何処から空気は「私」ではないのか?である。

 

吸われたときは、空気は空気でしかないが、吐き出されるとき、私の体内にあった二酸化炭素なども放出される。

即ち、空気そのものの物質に「私」が内在したままなのか?である。

 

エレベーターで乗っていると、咳をしている人がいるとして。

数時間後、風邪を引いたときに「移された」と言わないだろうか?

空気を介して、私以外の身体から出たウイルスが「私」の身体に入ってくることを意味する。

 

コップ一杯の水を海に入れ、海を撹拌して、もう一度コップで掬ったとして。

元のコップ一杯の水を構成していた原子が世界中のどの場所であっても含まれる、と聞いたことがある。

 

同じ空間に入れば、同じ物質の空気を共有することは十分ある。

その空気は、私から出た空気の物質、他人から出た空気の物質には、それぞれ「私」が内在しているとしたら。

文字通り、「私」の中に「あなた」が居て、「あなた」の中に「私」がいることになる。

その場合、空間そのものが「私」であることになり、空気を保持している地球も「私」であると考えられる。

 

つまり、宇宙規模で言えば、大気の境目が「私」の境目だ。

そして、地球規模で言えば、「私」の境目はないことになる。

 

3、赤血球と結合してから。

 

血こそが「私」を内在するという想像だ。

1との共通は、「私」の身体を境目としている点。

2との共通は、何処から「私」ではなくなるか?の点。

1、2との相違は、何処まで「私」なのか?である。

 

爪や髪の毛と同様に血も切り傷があれば、身体から出る。

床に落ちれば、血は切り離されたと考えて良いだろう。

血の成分には赤血球が主だった成分だが、その赤血球と結合したままの空気もあるのではないか?

 

例えば、輸血で他人の血を私の中に入れる。

元は他人の血であるが、意識として、「私」の意識が「あなた」になることはない。

また、他人の血が「私」以外であると考えるか、意識するかが重要だ。

 

すべてに共通していることは、「私」の自意識である。

血が床に落ちて、汚れになっても「私」を見付ければ、それは「私」を内在していることになる。

 

血に含まれた時点、という仮定そのものが境目としてある。

 

色々と考察したが、総合して。

あえて、言い切る。

 

「私」の境目は、「私」を見付けた瞬間だ。

 

「私」という自意識が「私」を見付ければ、それは「私」である。

「私」という自意識が「私」の内在を認めなければ、そこに「私」はいない。

神出鬼没の幽霊に振り回されるような、そんな気分だ。

 

この思考は、文献を頼っていない。

故に正しいかは分からない。

しかし、それほど見当外れではないだろう。

 

これからも、自意識の渦に沈みながら、考える。