虫達の二重演奏が小気味好く聞こえてくる。
遠くで時折、自動車のエンジン音が低く響く。
町田舎の喧噪の中、栗どら焼きを頬張る。
9月も25日となりました。
私が30歳のオッサンになって、早4ヶ月。
クリスマスまでは、残り3ヶ月。
平成が終わるのは、1年と3ヶ月頃。
時間が過ぎ去るのを、ただ傍観する毎日だ。
毎日、毎日、疲れた身体を引き摺って邁進した先に、きっと夢も希望もくたびれていて、赤茶色の土の大地のひび割れから、伸び放題の名を忘れられた雑草を何度も、何度も踏み締めるように歩き、今にも止まりそうな足を、前へ前へと、朦朧とした姿形があやふやな意識が私を強迫し、磨り減っていく背骨の軟骨や、こむら返りするふくらはぎが、幾度も、幾度も冷たい影の中で休むよう哀願し、それでも、毎日、毎日、歩き続けて、2017年9月25日の現在、私は、時間を過ぎ去るのを、ただ傍観している。
何となく、「過ぎ去る毎日」のイメージを一行で書いたら、えらいことになった。
暗いな、いや、暗い。
明治神宮の広い境内を進むと、細い小道があって、ずっっと先に橙色の明かりが灯っているが、私の数歩先からその明かりまでにあるはずの道が、全く見えず、じっと目を凝らしても、目は何時までも橙色の明かりばかりを気にして、その橙色の明かりに至るまでに息を潜めている蛇や鬼を見事に隠し、分け入って進むことを拒むかのような、暗さだ。
読みにくい…か?
読みにくい、か。
読みにくいか…
何事も勢いだ。
何事も、勢いだ。
…何事も、勢いだっ!
本当にまとまりのない。
致し方ない。
これもそれも、思考の方向が定まっていないからだ。
魔法の羅針盤でも、銀の懐中時計でもいいから、私の方向を定めて欲しい。
そうしたら、その方向に向かって、歩くから。
疲れた身体と、底抜けに暗い気持ちも、何処までも仲良く一緒に。
方向性がないのに、文字数に縛られたら、こんな記事になる。
方向性は決めた方が、良いだろう。
そういう教訓となれば良い、私以外の誰かにとっての。
投稿します。