てんてけてんと木葉が転げている。
強く吹く風に押されて、否応なしに。
道路は木葉で渋滞を起こしている。
動いていると気付かないが、じっとしていると、手の指先がかじかむ。
小刻みに足踏みをし、肩をすくめて、寒さを忘れる努力をする。
びゅーと吹く、音さえ寒い風と、転げる木葉もなるべく気付かないようにする。
もう、足元で木葉が私の靴にくっ付いているのに、むりくり気付かない振りをし続ける。
しかし、歩く度に木葉が固い地面に擦れて、がさ、と音を立てる。
気付かない振りは誰かに対しては意味があるだろうが、自分に対しては意味がない。
この耳に聞こえる、がさ、という音が木葉であることを、私は知っているのだから。
人には、それぞれ、他人とは相容れない何かを抱えている、と私は考えている。
「話し合えば、きっと分かり合える」というのは、本音でとことん話したことがない人のように感じる。
私は年上や同年代の様々な人に、私の本音を明け透けと話すことが、何度かあった。
しかし、いくら言葉を尽くしても、どうしてそんな考えになるのか?、と首を捻られ、分かってもらった試しがない。
私としては、自明の理なのだが、普通はそうした考えには至らないらしい。
こうした相容れない何かを、心の闇、地雷などと呼称する。
私の場合は、相容れない何かを、「怪物」と呼称している。
人には、それぞれ、怪物を抱えている。
お互いに、その怪物に触れてしまえば、傷つくことになるので、そうなれば、別離するしかない。
高校時代、私は美術部だった。
その時に私は、「洞窟で怯えるオオカミ」という心象画を描いた。
当時は、単純に、イメージとしてオオカミが怯えている様子が頭に浮かんだから、キャンパスに落とし込んだだけであった。
今では、このイメージが、私の「怪物」の象徴になった。
鋭く尖った爪のある大きな両手で顔を覆い隠し、ガタガタと吐く息さえ震わせながら、暗い洞窟の奥底でじっとしているオオカミ。
私の中に存在する、他の人と相容れない「怪物」、それが「洞窟で怯えるオオカミ」だ。
私が何かを発する度に、誰かを傷付けてしまうことへの、恐怖。
私が何かをする度に、間違えているのでないかという、猜疑。
誰かに迷惑をかけたり、悲しませることを気にするのに、私、私と自尊心、自己中心へ陥り、堂々巡り。
いっそ、何もせず、じっと自分だけを身体を抱けば、何も心配いらないが、そうした「自分だけ」は中々できない世の中だ。
だから、そっと私はその怪物を、内の中に閉じ込めておく。
そして、普段は、そんなものはいませんよ?と気付かない振りをする。
私の中に、ふしゅるるる、と細く長く耳障りな、怪物の息の音を、私は聞こえているのに。
まるで、靴にくっ付くこの木葉のようだ、と自嘲する。
気付かない振りをすれば、表面をなぞるだけ、万事上手く事が運ぶ。
だけど、ずっと気付かない振りはできない、させてくれない。
だから、「思考」するしかない。
私が「私」を追求する理由の一つ、私の「怪物」を私は知りたい。
思考の渦に巻き込まれる時、怪物はきっとほくそ笑んでいる。
そうして、何度も何度も堂々巡りをした先に、どちらかが倒れているだろう。
どちらが倒れているかは、ずっと先、未だ知る由はない。
てんてけてんと木葉が転げている。
靴にくっ付いた木葉も何時の間にか、剥がれて転げていた。
くっ付くときも、剥がれるときも、一言もなく、木葉は転げて、見えなくなった。
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