とある人に、一足早いクリスマスプレゼントをもらった。
私が「旅先でよく写真を撮るためにスマートフォンの電池の減りが早い」、と言ったからか、モバイルバッテリー。
モバイルバッテリーの説明と、端的に書かれた感謝の言葉を綴った手紙。
モバイルバッテリーを傷付かないよう保護するために、ボトルカバー。
クリスマスプレゼントだからか、お菓子が数点。
私が書いた小説の「あなたが眠るまで。」のヒロインのイラスト。
それらをクリスマス用の袋に入れられて、手渡された。
私はこれらをもらった時に、これは書かなければならない、と決意した。
クリスマスプレゼントをもらえたことを、ではない。
私は、罪を告白しなければならない。
胸糞悪い話で、読む人すべてを不快にする、本当に悪いことだ。
不特定多数が読む記事にせず、私の胸の奥深くに、ダイヤル式金庫で仕舞っておくことかもしれない。
もしかしたら、この記事を書いたことによって、また私の人生が破綻するかもしれない。
それらを押して、尚、書かなければならない。
何故なら、クリスマスプレゼントをもらってしまったから。
恐らく、善意であろう、これをそのまま受け取るには、どうにも気分が悪い。
相手にまるで私の言葉が届いていないことの落胆が大きい。
私の気持ちを伝えた方が良い、そう強く感じた。
アンダーラインから下が本題だ。
閲覧注意の上、自己責任で読み進めて頂きたい。
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クリスマスプレゼントをくれたとある人の仮称をNさんとしよう。
Nさんとの出会いは、パソコンの総組み立ての工場で、隣にいた人だった。
私の配属されたラインの、周りにいた人たちは、皆、親切で良い人であった。
コミュ障の私にも、数人の仲の良い人ができた。
その和気あいあいとした中で、Nさんは浮いていた。
もっとハッキリ言えば、嫌っていた人もいた。
Nさんは、人が話しているときに、突然割り込んできて、自分の知っていることを喋り倒した。
当時は空気を読めない人だな、くらいの認識であったが、隣であったためか、向こうから話しかけてくることが度々あった。
私はNさんと接していく中で、ある考えが浮かんだ。
そうだ、Nさんに嫌われよう。
派遣で主に構成された工場は、何時辞めて居なくなっても可笑しくなかった。
どうせ、この場限りの付き合いだ、皆に煙たがられているから、私も距離を思いっきり取ってしまおう。
それがNさんとの付き合い方を決めた瞬間だった。
とにかく、冷淡に返事をした。
素っ気なく返事を繰り返した。
気付かなかった以外で、無視はしなかったが、話しかけても「そうですか」としか言わなかった。
しかし、今度は、FacebookなどのSNSに招待してきた。
Facebookを始めた、本当の理由は、Nさんに嫌われるために入っておこう、と決めたからだ。
Facebookでも、かなり悪質なことをした。
コメントを辛辣に書いたり、突然、友達から外したりした。
普段は滅多にやらない、煽るようなこともしてみた。
しかし、それでも、Nさんは私を遊びに誘ってきた。
私は特に断る理由がなかったので、諏訪の花火大会や、山への散策に付き合った。
そこでも、かなり、嫌な対応をした。
山での散策では、相手を置き去りにして、1人ずんずんと先を歩いた。
それでも、尚、何故か、絡んでくるNさん。
私のことを純粋だ、と評したとき、この人は何も見えていないな、と呆れたものだ。
その上、何故か、Nさんは私に告白してきた。
Nさんは所帯持ちで、お子さんもいて、歳も親ほど離れた年上の女性だ。
その時点で、私は、Nさんのことを嫌い始めていた。
夫や子どもがいるのに、告白する神経が信じられなかった。
なので、平手打ちを1発して、そのまま帰った。
明確に人に暴力を振るったのは、小学5年生以来2回目で、女性では初めてだ。
後で、本人から非難のメールを寄越してきたが、それも素っ気なく対応した。
私は相手に暴力を振るったので、警察沙汰になるかもしれない、と覚悟していた。
しかし、特にNさんは蒸し返すようなこともなく、話が終わった。
Nさんの創作したオリジナル漫画を手渡されたときは、苛烈なまでに酷評した。
実際、かなり酷い出来ではあったのと、この頃には、これくらい言わないと伝わらないと感じていたからだ。
漫画の出来が酷いことと、私が嫌われようとしていることを、私は必死に綴った。
付き合いが長くなるにつれて、私はNさんを完全に嫌った。
私は、Nさんを人間としておかしいのではないか?と感じてならない。
話を聞けば、分からなくもない部分もあるし、人それぞれの価値観があるのだから、私がとやかく言うことでもない。
しかし、首を傾げたくなることが度々あった。
私がNさんにしてきた仕打ちを他の人が糾弾したとしたら、その糾弾した人に対して、不快な思いをさせたことへの罪悪感はあるだろう。
しかし、私がNさんに対して、良心の呵責に苦しむことは、一切ない。
今では、父の次に嫌いな人になった。
未だに、これは変じゃないか?と感じる場面に出くわす。
私が他人に対して、「苦手」だ、と言う言葉はよく使う。
ただ、相手の言い分の方が圧倒して正しいので、苦手ではあるが、嫌いではない。
他人に対して、「嫌い」と言えるほど、私は偉くないし、正しくない。
「嫌い」と言い切れるほど、私は私の言い分に自信など微塵もない。
他人に対して、ハッキリと「嫌い」と感じるのは、Nさんくらいだ。
今でも、嫌ってくれたら良いな、とは考えるが、以前にくらべて、面倒な気持ちが強くなってきている。
それなのに、しょっちゅう、メッセンジャーにメールを送ってくる。
返事をするこちらの身にもなって欲しい。
そして、ふと気付くと、当時、私と仲良くしてくれた親切な人たちとは、疎遠になっていた。
なのに、当時から変わらず、嫌われようとしていたNさんとは、何故か、未だに付き合いがある。
その上、今回、感謝の言葉を添えたクリスマスプレゼントをわざわざ私に用意した。
この人は一体、何がしたいのだろうか?
心底、私は不思議でならない。
むしろ、クリスマスプレゼントを手渡されたときに、私のコメントについて言及していたが、私が嫌われようとしている可能性は考えていなかったのだろうか?
とにかく、私は、Nさんが嫌いだ。
間違いなく、Nさんは読むだろう。
ショックを受けるだろうか?ショックを受けること自体、何も伝わっていない証左なので、私の方がショックだ。
知っていた、と答えるだろうか?それならそれで構わない、ある意味で、お互いの距離感が分かっている、ということになる。
向こうは、これからも絡んでくるだろうか?
私からは特にブロックをするつもりは更更ないので、向こうが嫌ってくれるのを気長に待つことにする。
善意で渡されたクリスマスプレゼントが、悪意の人間に手渡された悲劇を知ってしまった心優しい誰かが苦しむことだけが、私の胸を締め付ける。