早めに帰れたから、何かしようとする。
しかし、2時間ばかし、座ったまま特に何かしていない。
特に今やらなくて良いことに手が伸びては止めるの繰り返しだ。
今日は駄目だ…書けそうにない。
時間があるから、さっと書ける訳ではないのだ。
書きたいことがあっても、今書くことでもないのだ。
私の中で言葉の鮮度が落ちていく。
最初の一歩の何て重いことか。
月から帰還した宇宙飛行士が支えられなければ歩くことさえままならないような、重さを感じる。
書こう、という時間があるのに、書けないのは何故だろうか?
書けない、と決めてから打ち始めれば、指は勝手に動き出す。
今、この指を書かなければならないことに向けたら、書けるだろうか?
そういうことではない気がする。
じゃあ、どういうことなのか、と聞かれるととんと分からない。
分かっているなら、こんな駄文をせっせと書いていない。
セパレート、何か大きな枠組みを分割して、一つ一つのパーツにしたとして。
その分割したパーツの一つ一つをまた組み直せるか、と言えば、そうでもない。
物事を理解するのに分解は役立つが、元の形を理解しているとは言えない。
時間を分割して、一つ一つの時間の使い方があって。
しかし、その分割した時間は、通り過ぎてからでないとその枠組みは分からない。
未来は未だないから「理解する」とはまた違う。
過ぎ去ったから、その時間の意味を考えるのであって、過ぎ去る前の時間は、私の手元にあるはずだ。
私の手元にある新鮮な時間を、私はただただ腐らせている。
どうしてだろうか、聞かれてもまるで分からない。
小難しく考え過ぎている。
しかし、考えなければ、言葉が出てこない。
いや、考えなくても出てくる言葉はあるのだが、考えることとの明確な差がやはり分からない。
指をもっと動かせば良いかもしれない。
色々と考えて、結局、出来得ることがそれしか思い付かない。
今、書いている文章も、パソコンのキーボードの上で指をわちゃわちゃと動かして、キーの上辺だけをかちゃかちゃ鳴らしてつつ、時折、わっと書いては止めている。
試す前から否定しても仕方ない。
今日は一先ず、この記事を投稿して、明日以降の時間があった時に、わちゃわちゃ動かしてみよう。
それで書けたなら、指と心の連動を信用しても良いかもしれない。
今日はここまで、とどことなく投げやりに、投稿する。