うら若き女性が青筋を立てて怒っている。
「何をそんなに腹を立てているのか?」、と私が尋ねると、キッとまなじりを上げて睨んでくる。
そして、思わず溢れた涙が頬を一筋流れる。
女性の態度は、「そんなこと、言わなくても分かるでしょ?」と言わんばかりだ。
しかし、睨まれている私には、さっぱり分からない。
言ってくれなければ、分からないことはある。
例えば、コーヒーに「砂糖を入れるか?」と聞かれ、お願いしたとしよう。
大概、相手は角砂糖1つで良しとする。
しかし、甘党の私は、3つは入れて欲しい。
だから、私は最初から「角砂糖は3つは入れて」と言う。
それに対して「コーヒーの風味が損なわれる」と相手は言うかもしれない。
しかし、それなら最初から「砂糖を入れるか?」と聞かなければ良い。
コーヒーの風味を損なうと考えるなら、テーブルの上に角砂糖入れやミルクの入った小瓶を出さなければ良い。
そして、「試しに一口、何も入れずに飲んでください」、と言えば良い。
そうすれば、きっと私は何も考えることなく飲むことができる。
察するとは、相手のことをよく理解しているからできることだ。
しかし、察しようとしても、自ずと「あの人はこういう人だ」、と解釈するようになる。
解釈していることが正しく理解していることではない。
そも、相手のことをよく理解するほど、相手を知る手立てがあるのか?と言えば、ない。
察する、空気を読む、そう至る前に、どう動けば分かっていたら苦労しない。
理解してほしい、と願うならば、可能な限り言葉にするべきだ。
そんなことをうらうらと考えていた。
察するのが苦手な私には、言葉を使って伝えて欲しい。
睨んでも、怒っても、言葉にしなければ分からないことは、たくさんある。
ああ、言い忘れていたが、青筋を立てたうら若き女性は存在しない。
うらうらと考えていて、「うら若き女性が青筋を立てて怒っている」が頭に浮かんだので、そのまま最初の1行目にした。
私に対して涙を零すほど激情するような愛らしい人など、常識で考えて居る訳がないではないか。
私のことが分からない?
然もありなん、だから私は最初から書いている。
言ってくれなければ、分からないことはある。
画面の向こうで青筋を立てている人がいないことを祈りつつ、投稿する。