ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

@《Grazie a tutti !!!》ありがとう、気付かせてくれて。

6月1日、今年の半分が終わった。

半袖では未だ寒いが、長袖だと少し暑い、帯に短し襷に長しといった風情の時期だ。

春でも夏でもない季節、6月1日はそんな日だ。

 

当ブログに於いては、相変わらず、詰まらない記事を延々と書いている。

1年通して大いなる変化など望むべくもない。

しかし、小さい、然れど確かな節目を迎えたのは、事実だろう。

 

当ブログの読者登録者が100人を越えた。

私の何の益も無いブログを登録している人間が100人いる、というのは摩訶不思議な出来事だ。

袖触れ合うも多生の縁なのか、腕を組んで唸るばかりだ。

 

実はこの100人目に到達する前に、1度、95人まで人が減った。

詰まらない記事しか書かないので、ある意味で当然な帰結なのだが、99人に到達してから減っていったので、このタイミングで?とは訝しんだ。

ブログの魔物に襲撃されたような気持ちであったので、100人目到達は感慨も一入だ。

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目次

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1、プロフィール紹介。

さて、節目の100人目のブログを紹介させて欲しい。

私のブログの100人目の読者登録をしたブログはこちら。

 

www.grazieatutti.jp.net

 

イタリア…?まさかのイタリア人…?

などと考えてながら、プロフィールを開く。

 

イタリアに興味のある皆様 レストラン関係者様・留学予定の皆様・ご旅行予定の皆様へ何らかのお役に立てればと始めたエノガストロノミアのブログです。

昭和初期から声楽でナポリ・ローマに在住した祖父から3代続くイタリアとの絆。

1985年にイタリア最古のホテル学校に留学卒業後、総合商社現地支社食材ワイン部門に勤務。

その後も数年前まで30年強住んでました。

専門の食文化を中心に食材・料理の歴史、イタリア人たちと日々過ごした中から得た情報や経験、生活習慣の違いなどなどご参考お楽しみいただければ、と思います。

末長くよろしくお願いいたします。 エノガストロノモ マ ッキー?!

 

 

…日本人、なのか?30年強もイタリアに住んでいたら、最早イタリア人じゃないか?

イタリアか、行ってみたい国ではある。

完全に観光目的だが、興味は多大にある。

何時かは行こうとは、ひっそりと考える。

 

それにしても、このマ ッキー?!さん、6月1日現在でブログ日数102日と完全な初心者にも関わらず、読者登録者数が812人なのだ。

812人…え?何がどうしてこんなに登録されているの?

頭の中でブリザードが吹き荒んで凍り付いたが、最初の記事で、僅かばかりに氷解をした。

 

本を、電子書籍を出版しているようなのである。

つまり、ちょっとした著名人なのだ。

…なのか?いや、分からないが、電子書籍を出せるくらいには文章を書き、それを買い求める人がいる、と推察できなくもない。

 

2、記事紹介。

さて、マ ッキー?!さんがどんな記事を書いているのか、幾つか覗いてみて、唸る。

どの記事も、結構短い。

1、2分くらいでパッと読めて、それでいて、何か為になる。

 

一般的なブログは、4000文字、5000文字を書いてボリュームを出している。

それに対して、実に簡素な記事構成だ。

とても私好みだ、他の人はどうかは知らないが。

 

しかし、今回に限ってはちょっと困った。

私のブログ紹介では決まって記事を一つ選んで、勝手に行間を読んで記事を補足しているのだが、どの記事も短いので、行間を読んでもすぐに終わってしまう。

どうしたものか…と復習って見ると、曜日毎に何かイタリアの格言?を書いていることに気付いた。

なら、1週間で区切って、曜日毎の格言を拾って、紹介して、何か感じたことでも書いておこう。

 

土曜日

www.grazieatutti.jp.net

 

Diamo spesso per scontate proprio una parola che

più meritano la nostra gratitudine.

 

ありがたく思う自分たちの気持ちにもっともふさわしい

たった一言を忘れてしまいがちです。

 

ありがたく思う自分たちの気持ち…この場合は感謝の言葉だろうか?

忘れてしまうのは、使わないからであり、気持ちを言い表せずに終わることに警告している、のだろうか?

割と「ありがとう」は使っているが、「もっともふさわいしい」言葉を何か忘れているのかもしれない。

「頑張る」、「挫けない」、「ゆっくりする」、「自分を許す」などか…?

そも、この思考であっているのか?

何か自意識の泥沼に嵌りそうなので、もっと単純に「ありがとう、気付かせてくれて」が今の所のもっとも相応しい一言としておこう。

 

日曜日

www.grazieatutti.jp.net

 

Ti amo.
Tre secondi per dirlo.
Tre ore per spiegarlo.
E una vita intera per provarlo.

 

Ti amo - 君を愛してるよ。

これを言うのに3秒。

これを説明するのに3時間。

そして、証明するには一生かかる。

 

おお、イタリアっぽい格言だ。

恋はさっぱり分からない私だが、亡き祖母への愛で言えば、そうだろうな、と。

私が如何に亡き祖母を愛していたかを、3時間で説明できるかは分からないが、10分、20分じゃあ足りないのは分かる。

そして、この感情は一生抱えていくつもりなのだ。

別に誰に対して証明することでもないことだが、私にとっては重要なことだ。

 

記事内でマ ッキー?!さんは「毎日1回続ける。。。」と書いているので、ここら辺がイタリア人気質だと感じると同時に、毎日続けようとする姿勢が素晴らしいな、と。

毎日言うことはしんどいだろうが、必死に伝えなければ伝わらないことなど山ほどある。

たった3秒、されど3秒、侮る事なかれ、と肝に銘じる。

私に相手がいないという事実は、忘れてほしい。

 

月曜日

www.grazieatutti.jp.net

La vita è per il 10% cosa ti accade e

per il 90% come reagisci.

 

人生とは、10%は何かがあなたに起こること

そして90%はどう対応するかで決まる。

 

…これはどう捉えれば良いのか…?

人生の10%の何かがないと人は生きていけない、受動な生のような受け止め方もできるような…?

それとも、人生には予め決められた10%の運命があるとでもいうのだろうか?

人生は10%の何かで構成されていると捉えるべきなのか?

 

穿った見方をしてしまったが、本質はそこではないのは分かる。

何かが起きた時にどう行動するか、どう対応するかがあなたの人生だ、と言いたいのだろう。

予期せぬことに対して、私ならどうするだろうか…?

 

粗方の部分はどうにでもなるから、何時起きるか分からない何かに気を留めなくても良い、とは考える。

そも、何が起きるか分からないのに、用意も何もできやしないのだから、観念して待てば良いだけの話だ。

後は起きた時に、起きた時の私がどうにかしてくれる。

今は、今を楽しめばそれで良い、と私は考えるので、私の90%はもうすでに決まっていると言える。

 

…これは、やはり、運命論のような格言なのだろうか…?

すでに、10%に引っ掛かっているような気がしないでもない。

 

火曜日

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Forse non abbiamo più niente da dirci,

ma porta i tuoi occhi, io porterò i miei,

ci penseranno loro.

 

もう我々は何も言うことがないかもしれない、

でも、あなたはあなたの目を持って来て、

僕も自分の目を持って行くよ、後は目が

語ってくれるさ。

 

目が語る、イタリア人が言うと素敵ワードに聞こえる。

しかしこの目が語るというのは、空気を読め、という多分に含まれている気がする。

察しろよ、言いたい事は分かるだろう?の空気を読まなければならないのは、正直、辛い。

 

むしろ、もっと言葉にする努力をすべきと考えるので、この格言には賛同できない。

…いや、言葉を尽くした先の、お互いにどうにも動けない経験は何回かはあるけれど。

それでも、言葉を尽くしても、言葉にする努力はすべきだ。

 

目を見て何かが分かる、なんてのは幻想だ。

十中八九、そういう意味ではないだろうが、とりあえずアンチテーゼを主張する。

目を持って行く前に、胸の奥の言葉を尽くそう、少なくとも私はそう考える。

 

水曜日 

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Che cos’è la felicità?

Una casa con dentro le persone che ami.

 

幸せって何?

それはあなたが愛する人々の中にあるもの。。。

 

これは外向的人間が発想する幸福論だ。

愛する人と共に過ごすことが幸せだと頑なに言っている。

別に、1人でも幸せになれるし、愛する人々の中に必ずしも幸せがあるとは限らない。

 

愛する人々に囲まれているのに、孤独を感じる人もいるだろう。

野花が咲くのを見付けて、小さな幸せを感じる人もいるだろう。

一概に、これが幸せだ、と断じるのは、狭量だ。

 

勿論、愛する人々の中に幸せを見出す人はいるだろう。

それがマジョリティであるのも分かる。

しかし、マイノリティの人間の幸せも願っても良いはずだ。

 

と言うより、これがイタリアの格言だとすると、内向的なイタリア人はちょっと辛くないか?

それとも、内向的なイタリア人など存在しないのか?

いや、少数だろうが、きっと内向きな人間はいるはずだ。

 

この格言も賛同できないな…

それとももっと含蓄があって、私が読み込めていないだけだろうか?

とかく、幸福とは、もっと多様性が富んだものだ、と私は考える。

 

木曜日

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Un solo fiore può essere il mio giardino…

un solo amico, il mio mondo meraviglioso.

 

たった1本の花さえあればそれは自分の庭さ。

一人の友達は、僕の素晴らしい世界さ。

 

記事内にてマ ッキー?!さんは「。。。そんな友達関係で居続けたいですね」と綴っている。

つまり、1本の花は友達の比喩表現ということになる。

 

友達が1人でもいれば、それで良い。

ここら辺は、共感できる。

友達が1人でもいれば、自分とは違う世界を見せてくれる、素晴らしいことだ。

 

何時頃に花が咲き、どんな匂いを発し、やがて枯れても、また次の年には芽吹いて、花が咲く。

そんな花の移ろいを楽しめれば、十分だ。

同じように、友達が何に興味を持ち、何を話し、それぞれ仕事で会えなくても、次に会ったら馬鹿話で花が咲くように、友達の移ろいを楽しめば良いのだ。

 

イタリア人、もといマ ッキー?!さんはポジティブな人なのだろうか?

私とは性質が違うだろうから、どんなことを話されるのか、その移ろいは気になる。

 

金曜日

www.grazieatutti.jp.net

 

Lo diciamo spesso “ti voglio bene”,

dimenticando che significa “voglio il tuo bene”.

Senza invidia, giudizio, senza egoismo.

 

「君のことが大切なんだ。」とよく言うけれど、

嫉妬や批判やエゴなしに「君の幸せを望んでるよ」と

いう真意を伝え忘れてるかも。

 

 

嫉妬、批判、エゴ、それらがない真っ新な気持ちで「君の幸せを望んでいるよ」と伝え忘れているかもしれない。

 

嫉妬からの「君のことが大切なんだ」は、自分から離れることを許せないのかもしれない。

批判からの「君のことが大切なんだ」は、相手を攻撃することへの言い訳なのかもしれない。

エゴからの「君のことが大切なんだ」は、結句、そういう言葉を言って自分で自分に酔っているだけなのかもしれない。

 

真っ新な気持ちで「君のことが大切なんだ」には、きっと相手の幸せを深く望んだ真意が伝わる、のかもしれない。

 

この記事を振り返って見れば、何と醜い嫉妬と批判とエゴの言葉ばかりだろうか。

ぐさり、と胸に突き刺さったのは、ひどく鋭いガラスの破片のような私の言葉だ。

 

私の真意…ただ、私は、100人目の読者登録者のブログを紹介したかった、それだけだ。

余計な解釈が目立つが、私の真意はたった1つ。

 

ありがとう、気付かせてくれて。

 

これ以上は蛇足になりそうだ。

一先ず、長野県は安曇野から、イタリアに想いを馳せて、終わりにする。