ドキュメンタリーの再放送をちらりと見る。
ぼやっとした脳でテレビ画面を見つめる。
ドキュメンタリーでは、脳科学者が脳卒中での進行中の話をしたり、脳の不思議をついて滔々と流れていた。
私が興味を引かれたのは、その脳科学者が手術後、「私」とその他の境目が分からなくなった、と語っていたのだ。
脳科学者は、身体とその他の境目がなくなり、60兆個の細胞が液状になっている感覚を覚えたそうだ。
その液状の状態を「涅槃」と表現したのは面白かった。
そうすると、ブッタが悟りを開いたのは脳の異常が起きていた可能性がある?
苦行を課して自分を追い詰めていたから、脳への負担もあったはずだから、もしかしたら、もしかしてかもしれない。
さくっと流れたが、脳科学者が損傷したのは左側、論理や言語を主に司る部位が多いとこだ。
その左側が損傷した、言葉で自身を定義できなくなって、産まれ持った感覚が目覚めた、としていた。
赤子の頃の記憶で、海の記憶を示唆する表現は幾つか見たので、液状の状態が本来の感覚かもしれない。
この、何者にも、何物にも囚われていない感覚が呼び覚ませば、逆説に「私」のことが分かるのだろうか?
その為には、左側の脳を故意に損傷するしかないのか?
リスクが非常に高いし、リターンが見込めるかも分からないから、博打さえ打てない。
この言葉を頼らざる得ない言語的人間である私には、涅槃は遠い。
途中であったが、テレビの電源を切る。
ぷつっと切れた後に流れる柱時計の刻む音も、そのまま置いて部屋に戻る。
ぼやっとした頭では論理も組み立てられない。
しかし、論理を超越した感覚の裏側は果たして組み立てられるのか?
道は困難だが、新たな指標にちょっとだけわくわくしている私がいる。
「私」以前は液状なのか?
その解を求道しよう。
私は「私」について新しく知る何かを期待しながら。
ぼやっとほわっとずるずると、頭と心と足を前へ進める求道者とは、私のことだ。