ブログを取っ掛かりに考える。
ブログを始めて1ヶ月ちょっと、毎日ではないが記事投稿が続いている。
この「記事投稿が続いている」という事実に私自身が驚いている。
SNSでは気が抜けると半年間何も書かずに放置してしまう私が、まさかこんなにもブログが続くとは思わなかった。
ブログとの相性がすこぶる良いのだろう。
はて、ブログとの相性がすこぶる良いのは何故なのか?
それで、私の内面の掘り起こしをしようと考察して、Facebookに投稿した。
Facebookに投稿したら、「ブログにも掲載したら?」と指摘される。
そういうことなら改めて記事を書こうと、はてなブログの記事画面を立ち上げる。
はてなブログはコピー&ペーストは宜しくないようなので、非常に億劫ではあるが、書き直しする。
まず、「ブログ」とは何か?
そのことを書いたブログがあったので、参照させて頂いた。
ブログとは、ウェブログ(Web Log)の略です。ウェブサイトに記録(Log)するから、ウェブログ(Web Log)。略してブログ
ブログとは情報発信ありきのメディアで、通常のウェブサイトと同様、「発信」の色が濃く、情報量も多い性質があります
続いてSNSについての記述もあった。
SNSはSocial Networking Serviceの略で、人と人をつなぎ、コミュニケーションを楽しむためのサービスです
ブログのように個人の発信ありきのものではなく、会話に近いコミュニケーションが特徴です
ネットメディア攻略研究所|ブログとSNSの違い ブログって何?SNSって何?
https://m-ochiai.net/blog-sns/
(ここだけコピー)
さて、ここでの違いは何なのか?
端的に言えば、SNSは双方向、ブログは一方方向であることだろうか。
そのことを踏まえて私がやっているSNSについて考えてみる。
私がしているのは、mixi、Facebook、Twitter、はてなブログの4つだ。
mixiでは。
相手をいることを確かに意識している。
そも、悪友に誘われて入会しているので、双方向であることを意識せざる得ないところがある。
ただ、ここ数年は12月の個人企画の発信、つまり一方方向の記事に重点を置いている。
Facebookでは。
双方向なのか?
旅行や考察のアクションが欲しい?
いや、どちらかと言えば一方方向だ。
書きたいから、書いている。
そも、「嫌われてもいいや」がFacebookの根っこにある。
仲良くしようの双方向の思想ではない。
Twitterでは。
独り言を呟くのは人によっては双方向だろう。
私の感覚では一方方向だ。
何せ、呟くことの内容のなさが半端ない。
※2021年8月追記。
最近は演劇関係の呟きで双方向のやりとりもある。
しかし、やはり、情報収集、一方方向の感覚は依然強い。
そして、はてなブログ 。
言いたい放題の荒れ荒野、どう見ても一方方向だ。
SNSに苦手意識があったのは、相手がいることを想起しているからだ。
こちらから会話の糸口を発信することを意識して記事を書くのは、相手ありきだからだろう。
しかし、私の思想や信念は世の中とズレている部分が多々あり、誰かと会話する為だけにエネルギーを費やせられない部分がある。
誰かと会話するためだけにエネルギーを費やせられないのは、私が常に一方方向のコミュニケーションしかしていないからだ。
自身の思想、信念のみをただ書いているので極論、私のみが分かれば良い節がある。
ブログに嵌ったのは、私の一方方向の発信とブログの特徴が一致したからではないか?
ならば、「一方方向の発信」を何故私はするのか?
それは、「一方方向」であることは、私が一人ぼっちの人間だから。
受け身人間である私は相手の言い分を聞くのが常になる。
しかし、現実では自分の考えを言葉にする時間がなく、また、同時刻同場所を相手と共有しているため、相手の都合で会話が終わるのもセットになりがちだ。
双方向はお互いに思考や体験を共有している部分があるため、会話が成立する。
会話が成立するよう働きかけることが、コミュニケーションではないだろうか。
SNSでは共有が求められているのは自明の理だ。
記事が上れば「イイネ!」ボタンを押す人や、メッセージでやりとりをしようとする人がいる。
その声に応えようとすることへの息苦しさがあるのかもしれない。
何せ私の思考は所謂「普通」とは違い、共有しにくい部分があるから。
ブログではその「共有」を無視して完全一方方向化している節がある。
とにかく、打って打ってアウトプットをしている感じだ。
普段から言葉にしない現状が私を駆り立てているのかもしれない。
では、「発信すること」、何故、私は自身の妄想を不特定多数のいるインターネットに記事を書いているのか?
書くにしても、非表示にして自分だけの中に留めないのか?
私にとってブログの在り方は一人ぼっちの在り方を問うものではないか?
ぼっちである私は私の中で完結している事柄が多々ある。
その中には変えられない本質的な問題も含まれている。
しかし、今まで生きてきた中で、私の思想に影響を与えたのは、私以外の人間の考え方だ。
私の一方方向の記事を投稿すれば、私という存在が想像していく中で、私とは違う人間の「発信」と巡り会えるかもしれない。
一方方向で既に規定された路線から思わぬ方向に行くことへの「期待」がある。
そう、相手の想像に自分とは違う答えを探したい。
SNSの双方向な共有することに重きを置いているならば。
ブログは一方方向な想像のし合いに重きを置いているのではないか。
アクションを求めず、ただ、好き勝手に言える美しき【ぼっちの世界】 がこのブログにある。
私がブログをしているのは、他者の想像に出会いに期待しているから。
ここまで手直しも加えて書いたが、やはり自分のためだ。
だから、あえてブログである意味は他者の存在を完全に無視はできない。
しかし、ぼっちである私が他者を意識すれば良いだけであり、相手が私を理解する必要はなく、私が相手に勝手に期待していれば良い。
相手に依存しながら、相手を拒絶する。
これぞ「拗れたぼっち」、自己矛盾の果て!素晴らしい!
※2021年8月追記。
4年前と変わって、大分私の思想、想像も変わってきた。
上記の「相手に依存しながら、相手を拒絶する」の部分は、変化したかもしれない。
依然、拗れたぼっち気質は抜けていないし、その自己矛盾は今も愛しているけれども。