スリッパを取っ掛かりに考えた。
友達の家にお邪魔すると玄関先で履かされるスリッパ。
まあ、ぼっちの私にはそんな経験ないですけどね!(σ≧▽≦)σ
スリッパというと外部のお客さんが外履きの靴から茶色のスリッパに履き替えますよね。
茶色のスリッパで施設内を練り歩く…何かシュールな気がするのは私だけ?
だって、スーツをビシッと着た壮年のおっさんの足下が茶色のスリッパって…ねえ?
そこら辺は誰も突っ込まないし、違和感がないのだろうけど。
スリッパで言えばやはりトイレ!いや、サンダルなのか?
室内だとスリッパ率は高い気がするんですけど。
あー、でも室内と段差で別けているような造りだとサンダルもありますか。
どちらにしてもトイレに素足はないんでしょうね。
やっぱ飛び散っているかもしれないっていう意識があるのかな?へへ。
あとは、お笑いのツッコミで[スッパァーーン]って叩くのに使われますよね。
あれ、中敷きを抜いているから良い音が出ているらしいです、確か。
実際、あんな風に頭を叩くことってあるんでしょうかね?
というかボケとツッコミのような会話が日常会話で出来ないよな…
うむ、ボケとツッコミね。そこら辺で。
あえて、言わせて頂きますが。
笑いには素養が必要で、素養の質はピンからキリまである。
笑いには素質云々はうろ覚えですが、松本人志の笑いについて書いた記事があって。
それに「あのオチを理解する素養が必要」と述べていたような。
笑いの嗜みというか、ここが笑い所なんだなと理解出来る教養がないと笑えない、だったハズ。
そんなことってあるのかな?という人もいるかもしれませんけど。
私個人に当て嵌めると、そうだろうなと感じます。
例えば、ハリセンボンの近藤春菜が「映画監督のさ」の振りで「マイケル・ムーア監督じゃねーよ」と返しますよね?
私、マイケル・ムーア監督がどんな人が知らないんですよね。テレビの下の方にイラストが掲載されて、「あー、似ているかも」と思いますけど。
だからって、音だけを聞いたら、ちんぷんかんぷんなんですよね。
でも、周りが笑っているし、イラストは似ているからまあ合わせて笑いますよね。
芸能ネタは本当に知識ないので、誰々に似ているとか言われても正直ピンと来ないんですよ。
芸能の知識、つまり素養がないから笑えない。
まあ、私の無知と馬鹿なことは周知の事実でしょうけど。
で、その素養の質にはピンからキリまである。
これは最近読んだ「言ってはいけない」の馬鹿は遺伝する、が基本にしてます。
すでに内容が飛んでいる部分がありますけど、知能の差での収入格差があることや人種によっての知能格差があることなどをデータを基に示しています。
ここで大事なのは、馬鹿は遺伝するならば、勉強をしても身に付く度合いが違うことを示唆している訳です。
どんなに勉強しても、知識として身に付かない人もいれば。
ちょっと見聞きすれば、たちまち身に付く人もいる。
孔子の弟子に顔回という人が居まして。その人は師匠より質が高かった。
孔子が同じ弟子の子貢に顔回とどちらが優れているか聞くと子貢は「顔回は一を聞いて十を知ります。私はようやく二を知るまでです」と答えると孔子は「そうだね、お前も私も及ばないね」と答えてました。
孔子は大変有名な人ですけど、孔子より素養の質が高い人間は存在したんです。
英語の中にはある種の知識人同士にしか解らない英語があるらしく。
その英語が解らない相手を前にしてその英語を使って会話をする、というのを高校時代の先生が教えてくれました。
ここにも素養がなければ理解が出来ないことがあることを示しています。
以上の事から素養にも身に付く能力差があります。
かと言って、笑う側の勉強が不要と言う訳ではありません。
何故なら、所謂一般常識はどうにかして身に付けなければそも生きるのが困難ですし、コミュニケーションをする上での素養の拡大は社会を潤滑にするのに必要だから。
全体の素養が上がれば、笑いのレベルが上がる。
それは、笑いの幅が拡がることに繋がり、新しいコミュニケーションに繋がり、未知の文化の創造に繋がることを意味します。
ただ、どんなに勉強しても身に付かない人がいることを忘れてはいけません。
なら、そう言う人たちとどうコミュニケーションをするのか?
こちらの言葉の意味を理解する素養がない相手とのコミュニケーション。
そう、それはスリッパで[スッパァーーン]と叩けば良いのです!
…うん、我田引水とは正しくこのことだろう。
もうドッパドッパ水を流し込んでいるようだ。
いやー、でも、この素養の質の問題は目を背けてはいけないとは考えているので、もっと真面目に取り組むべきなんでしょうけど…
解らないね、これが私の素養の限界かな?まだ決めるのは早いか??
スリッパ履くのは偉い人、スリッパはたくはボケる人。
どちらも素養がないといけない。多分。