目薬を取っ掛かりに考えます。
乾いてしぱしぱする目を潤すために差す目薬。
ここ数年は目薬を差してないことに気付く。
それほど目が乾くことがないからだろう、と何となしに考える。
「二階から目薬」、とは回りくどいことを指すことわざらしい。
最初に聞いたときは、二階から下にいる人に向かって目薬を注そうとする様子を妄想して、クスクス笑ってしまった。
「ねぇ!早く注してよぉ!」、「五月蝿いっ!今、最適値を計算しているところだっ!」と、やんややんやと賑やかに騒ぎながら、青春を謳歌している。
無謀と知りつつもやろうとする姿に、思わず笑みが零れてしまうのだ。
「思わず笑みが零れてしまう」が、すべて私の頭の中、妄想での出来事だ。
現実に「二階から目薬」をしている人を見た事はない。
そうした青春から距離を取られている気もする。
妄想で笑みが零れる、というのは結構いるのではないか?と推察する。
思い出し笑い、という単語があるくらいだから、妄想して笑ってしまうことはきっと誰しもがあると信じている。
しかし、それよりも踏み込んで、私は妄想について考える。
あえて、言い切る。
妄想で泣くのは、正常だ。
皆さんは妄想で泣いたことはあるだろうか?
もちろん、私はある。
感情移入しまくって、ガチ泣きしたことがある。
妄想で泣く事などない?否、そのようなことはないはずだ。
妄想で泣く人ほど、人として正常なのだ。
可笑しいことを宣っていると感じる方もいるだろうが、まずは私の弁を聞いて欲しい。
妄想の中身、自分の立ち位置や内容は人によって違うだろう。
私の場合は、アニメ的描写の作者視点だ。
漫画ばかり読んでいるので、実在する登場人物はいない。
また、私自身は作者の立ち位置なので、キャラクターが動くのを楽しむ。
気に入ったストーリーは、リピートして何度も妄想する。
女性の妄想は自身が主役とする場合が多いのだろうか?
漫画「高台家の人々」のヒロイン木絵は、自身が主役にすることが多々ある(私の知識は大抵漫画からだ)。
ぼっち故に実在する場面での経験が乏しいので、妄想する世界観は主にファンタジー寄りになる。
妄想とは、クローズドな世界だ。
妄想は、誰かに伝える必要はない。
妄想は、如何なる禁忌も赦される。
妄想は、如何なる制限も受けない。
内へ内へ向かっていく、自分だけの世界、それが妄想だ。
しかし、妄想しているだけでは生活できない。
働かなければならず、人と繋がらなければならず、外に向かわなければならない。
生活を放棄することは、生の放棄であり、死ぬことを意味する。
なら、妄想は何のためにあるのか?
それは、娯楽のためにある。
「ああだったら楽しいな」、「こうだったら怖いな」と自身の脳内に世界を設定し、バーチャルに耽るが如く行いだ。
では、娯楽とは何か?
娯楽とは、日常に刺激を与えることだ。
「起きて、働いて、勉強して、寝る」と、単調に成りやすい日常に非日常を取り込むことで、刺激を享受するのだ。
では、何故、日常に刺激を与えるのか?
日常に刺激を与えることは、感情を揺さぶることだ。
そして、感情を揺さぶられるから、人は自身の記憶とする。
人は体験、体感したことを記憶するのに感情が必要なのだ。
感情が栞になって、その人が体験、体感したことを脳内のあちこちに挿まれる。
そして、思い出すときに、脳内にある無数の栞から目当ての記憶を見付け、呼び起こす。
様々な記憶を入出力するのに、感情を揺さぶることが必要であり、感情を揺さぶるためには、日常に刺激が必要になる訳だ。
感情が揺さぶられないということは、無感情になると言うことだ。
無感情になるということは、何も記憶しないと言うことだ。
無感情な何も記憶しない、それは、死んでいるのと等しいことだろう。
故に、妄想とは「人らしく」生きるために必須だ。
よって、妄想で泣くことはむしろ!至極自然なのだ!
Q.E.D. 証明終了___。
ふふふ、強引に証明してやったぜ。
因みに《ブログチャレンジ》の「電車の中で書く」もやったぜ(文章の半分は電車内)。
ま、ざっとこんなもんさ!
…しかし、言い回しがアレだな、二階から目薬だな。
皆さんに良き妄想が訪れますように。