「私のように振る舞う何者か」を取っ掛かりに考えます。
石油ストーブの前に座り込んで部屋の真ん中辺りをぼんやりと見ています。
足の裏は冷気を感じるけれど、ストーブの熱が背中に張り付いて寒さはそれほどありません。
こんな日が続けば良いのにと漠然と考えながら、しかし止まることなく進む現実は容赦なく打ち切る訳です。
就職が決まりました。
食品加工関係の仕事で2月9日から勤務します。
雇って頂いたことに感謝しつつ、申し訳なさで左側のこみかみがズキズキと痛みます。
隠した訳ではありませんが、私が無能であることでこれからご迷惑をおかけするでしょう。
生きようとすると、何故人と関わらなければならないのか…可能な限り退職されないよう努めたい所存です、はい。
さて、私の追求の観点から「私のように振る舞う何者か」、「私」を演じている私はどう在りたいのか?
前、「私のように振る舞う何者か」について書きましたが、それを読んだ方が「自分はこうだ!」と言うことを強く示すことを勧めていました。
簡潔に言えば、「成りたい自分って何?」ってことです。
考えていることが未だ思春期から抜け出せないのはどういうことでしょう?拘り故ですね。(自己解決)
では、「成りたい自分」とは何でしょうか?
アドラーの考え方で以下の事を述べた、らしいです。
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「私は〇〇である」「世の中の人々は〇〇である」「私は〇〇であらねばならない」。性格の根っこには、この3つの価値観がある。
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「私」を形成する性格の要素であり、「私のように振る舞う何者か」のどういったキャラクターなのかを知る手かがりになりそうです。
まずは、当てはめて考えてみます。
「私は〇〇である」→「私は無能である」
「世の中の人々は〇〇である」→「世の中の人々は普通である」
「私は〇〇であらねばならない」→?
私の追求であることは私の存在についての追求です。「私は無能である」は今までの経験と事実、考察に基づいた結果で、今の私を形成しています。
10代の時だったら、「私は極楽至上主義である」だったでしょうから、10年の流れの中で変わった所でもあります。
最近は「社会の優しさ」をベースにしてますけど、根っこはずっと「普通」、「常識」かと考えます。
私自身が変わっている、「普通」じゃないことが私の追求の根っこにあるので、社会=世の中の人々は私の対照される事柄であります。
「私は〇〇であらねばならない」、これが分からない。と言うより、今まで規定していなかったところです。
今まで規定していない部分だから「私のように振る舞う何者か」のような曖昧な存在になっていたのかもしれません。
この私の存在の在り方を、私は規定する訳ですけど。これは重要です。
何故なら、アドラー曰く性格の根っこに成るものです。10年先の私を形成する事柄でしょう。
この空白に何を入れようか…過去の失敗から何か学ぶ姿勢を取り込めなくては。
今年の目標、としては「忠言を聞く」としているので、これを入れたいですね。
拘っていることで言えば、祖母を忘れたくないことですね。これは譲れません。
私の追求は私の生き方ですので、「あらねば」にかかるでしょう。
これらを一挙にまとめて…「求道者」だろうか?
忠言を聞くのも私の追求も真実を追い求めてだし、祖母を忘れないことも一つの真実で譲れないことですからある種一生喪に服すくらいのことですのでその点でも真実の追い求める「求道者」は良い気がします。
「私は求道者であらねばならない」…おお、何か格好良い。
これらをここで宣言しようか。
あえて、言い切る。
私は無能で世の中の人々は普通だ。故に私は求道者であらねばならない。
…おおお!すごく良い。偏屈さが一周回って好みな結論ですよ。
と言う訳で、「私のように振る舞う何か」改め「求道者」として生きます。
まあ、求道者の姿勢とかもっと詰めなければならない部分はあるでしょうけど。
私の10年計画はここからスタートでしょう。
何はともあれ、これで良し。