インターネット依存を取っ掛かりに考えます。
ビートたけしが自身の著書でインターネットに対して下記のようにコメントしたそうです。
「(前略)コミュニケーションやエンターテインメントのツールとしてスマホが役に立ってるのは認めるけど、かといって「ネットで調べればいいから知識はいらない。要はネットを使いこなす頭脳だ」みたいな風潮は絶対おかしいね。
映画を作ったり、芸術作品を作ったりするときには、かなり専門的で深い知識と理解が求められることがある。だからオイラも調べ物をすることがある。だけど、そんな時にネットで調べても、本当に知りたいと思う情報はほとんど出てこない。適当に聞きかじった噂や、間違った情報は論外。正しい情報だとしても、ネットで見つかるのはどこかの雑誌や新聞の引用、いわゆる又聞きばかりで、その「奥」まで到達しない。本当の意味で「調べる」ということは、専門書を読んだり、その道の権威に話を聞いたりして、「ネットに出ていないくらい深い内容を掘り下げること」なんだよ」(一部抜粋)
グサッと胸に突き刺さります。
私は記憶力に自信がなく、うろ覚えの知識で今まで生きてきました。
以前、うろ覚えをネタに一本記事を書いたのを思い出して当ブログ内検索をしてみました。
下記リンクがその記事です。
当ブログの検索で「うろ覚え」で検索すると幾つかの記事が浮上します。
それだけ私がうろ覚えで記事を書いていると言う訳です。
ビートたけしの発言は私の浅い知識とインターネットの過度の依存を指摘されたようで心臓が軋むような痛烈な痛みがあります。
別の人にも「機械に頼り過ぎじゃない?」と言われました。
私自身の記憶力より、機械の方が余程信頼できると考えてます。
インターネットが使えない現実の世界での会話だと適当な相づちと「ほら、アレです」と手振り身振りで話してます。もしくはひたすら黙っています。
記事を書いていれば、「この言い回しであっているか?」、「正確にはなんだっけ?」等、よく検索しています。
何処かで深い知識を仕入れなければいけないのでしょうが、何処まで深く知れば良いのか?は広大な海原の前にただ立ち尽くすような茫然とします。
そも、何を深く知れば良いのか?現在は私は自身を求道者と謳っているので、神住まう森を分け入るつもりで考えなければならないかな?とも感じます。
でも、私にしか興味がないからな…関心と知識は比例するのかもしれません。
むしろ、「人と関わるならば」が前提かもしれません。人と関わるのは避けたい私は深淵な知識は望むべくものではないのかもしれません。
何れにしても私は考えます。
あえて、言い切る。
インターネットの知識は、私の脳みそより断トツで信頼できる。
こうしてよりインターネット依存が増すのでしょう。
将来は頭の中が羽よりも軽くなるやもしれません。
いや、すでに頭の中は心太と入れ替わっているかも?
皆さんの知識が皆さんの人生を豊かにしますように。