カニバリズムを取っ掛かりに考えます。
人間を食べてはいけないのだろうか?が最近考えることです。
私自身が食べたいという要求がある訳ではないのですけど。
単純に美味しいのかな?と気にはなります。
もし身近の誰かが読んだら、危険思想だなんだと実生活に影響がありそうです。
もしくは、炎上記事狙いか?と思われそう。
でも、考えてしまうし、書いてみたくなりました。
所詮、私はペシミスト(厭世主義者)。世を拗ねて見る愚か者です。
閲覧注意、と一応は書いておきます。
さて、人食は創作の世界ではありふれた題材です。
物語の主軸であったり、シーンのアクセントで使ったり、設定に盛り込まれたり、と様々な形で登場します。
漫画でもそれはもう色々とあります。
有名なので言えば、「東京喰種」や「寄生獣」、「進撃の巨人」は人間をガッツリ食べてますね。
マニアックなので言えば、「東京赤ずきん」は人肉を売る店に普通の人間が買いに来たり。
pixivからだと「死にたがり少女と食人鬼さん」の食人鬼さんは人間以外の食べ物が受け付けない身体ですし(ここは「東京喰種」と同じ)
最近だと広告バナーに「人類食糧」というタイトルからしてお察しですし。
「幽遊白書」は主人公の幽助が人間を食べるのも許容する発言をしてますし。
あの超王道の「ワンピース」でもサンジの料理の師にして命の恩人であるゼフが義足になった訳とか。
「からくりサーカス」では石食いの芸を持つサーカスの団長がバス事故からの生還の際、「死人を食べたのでは?」と報じられる場面があったりとか。
拡大解釈すれば「HELLSING」の吸血鬼の吸血行為も人間を食していると言えますし。
兎角、枚挙にいとまがありません。
漫画だけではなく、映画や小説、演劇にも使われてます。
人間を食糧として考えるか否かは別として、「人間を食べる」という事柄はある一定の耳目を集めること、感情に訴えられることなのでしょう。
そうして、大抵こうした人間を食べるキャラクターは「怪物」と描かれます。
人間の上位種(吸血鬼や知的生命体など)や人間の下位種(知能のない怪物、獣など)と「人間」とは別の生物、次元の違う存在が人間を食べます。
人間でも変身、変容されて「元人間」=「怪物」になってしまうケースもあります。
趣味嗜好として描かれるキャラクターも私たち、この場合「人間」とはかけ離れた「狂人」=「怪物」とされます。
「人間を食べる」という行為に強い嫌悪感、拒絶を示す人が多勢を占めるでしょう。
これは人間である自分の身体に危害が加わることへの防衛本能ではないでしょうか?
自身の肉体が危険に晒されることは、死へと直結し、恐怖心を呼び起こすことになります。
また、「人間を食べる」人間に対して、得体の知れない恐怖があるでしょう。
普通の人は、人間を食べるという行為そのものに強い抵抗があるかと想像します。
何故なら、食べる前に人間を絞めなければならず、「わざわざ食べるためにそこまでする人間を理解したくない」と考えるのが普通のように感じます。
その行為を平然と(心中は泣き叫んばかりかもしれませんが)する人間とは距離を取ろうとするでしょうし、離れようとする心理は自然でしょう。
人間を食べてはいけない、それが人間社会の通念でしょう。
しかし、人間を食べてはいけないのであれば、何故「カニバリズム」という言葉があるのでしょうか?
マイノリティとして、人間を食べた人間が実在したことがこの言葉を生み出した、と私は考えます。
そも、共食い自体は自然界でも見られる事柄です。
例えば、ハチは弱っているハチを仲間のハチが食べることが知られてます。
カマキリの交尾後にオスがメスに捕食されるのはご存じかもしれません。
「ブラックジャック」で謎の伝染病に患ったシマウマが伝染病で死んだシマウマを食べる描写もあります。
「メダカくん、さよなら」ではメダカ等の魚類の擬人化をしてますが、魚は魚を食べるという行為をしています。これは違和感がなく受け入れられる事実ではないでしょうか?
ひとえに同族を食べるという行為自体は生物としては正常です。
クジラ漁にシーシェパードなどの捕鯨反対の声がありますが、理由の一つに「知能が高いから」、「神性な生き物だから」が上げられてます。
知能が高いとは、人間とのコミュニケーションが取れることを内包していると考えます。
また、神性な生き物とは自分たちの生活圏にクジラがいることが根付いているのではないでしょうか?
つまり、人間とは別の生物であるが、人間に親しい(近しい)種であることを示唆しているのではないでしょうか?
大陸では、犬や猫を食べる文化もあります。
日本だと、ペット(愛玩動物)で人間の生活の一部であります。
また、ハトは日本だと平和の象徴ですが、所変わればご馳走になります。
国によって食文化が違うのは当然ですが、ここで注目すべきは我々の生活、人間の生活に根付いている=親しい(近しい)種であることが食料と見なすかどうかの基準のようです。
生活に根差した生物で言えば、豚や牛が上げられます。
家畜として飼育され、豚と牛を畜産農家は手塩にかけて育てます。
出荷の際には泣く人もいるでしょう。
ここで、「可哀想だから売らない!」とはなりません。
身も蓋もないことを言えば、食べるために育てた訳ですから。
手塩に育てたというのも、人間が美味しく食べるためですし。
クジラと牛、犬猫と豚の違いは一体何でしょうか?
私は感情や精神と理屈や空腹への誘惑が天秤がどちらに傾くか、が焦点ではないでしょうか?
クジラは絶滅が危惧されてます。そこには食べることへの欲求よりも可哀想という感情が上回っているのでしょう。
また、犬猫はペットとして、「家族」として共に生きるパートナーであり、その存在が精神を支えているのでしょう。
逆に牛や豚は屠殺することよりも、その先の食すことの方が重要になるでしょう。
では、人間が人間を食べるときとはどんな時でしょうか?
緊急時、遭難や飢饉で他に食べる物がない時に選択することはあるかもしれません。
しかし、遭難や飢饉で実際に人間を食べた人間はどの程度いるのでしょうか?
如何に空腹でも、人間の形のままで頂くのは抵抗が強いでしょう。
また一度食べれば、食べた事実に苦悩して病みそうな気もします。
飢饉で人間を食べる人間がいたとして、その後人間が人間を食べる文化が根付かなかった点から、あくまで緊急時であることとそうした人間は排除された可能性が考えられます。
緊急時で人間を食べるのは「狂人」、「怪物」にならなければならないのでしょう。
私としては「人間を食べる」ことへの苦悩はない状態を前提にしたいです。
理由は、牛や豚を食べた事実で私や他の人が苦悩して心が病む、ということはないでしょうから。
ならば、どうしたら苦悩なく人間を食べることが可能でしょうか?
小説「君の膵臓をたべたい」はインパクトのあるタイトルですが、主人公とヒロインの尊い関係をこの一言に込められてます。
「母の亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」は詳しい内容は知りませんが、これもタイトルから深い愛情が感じられます。
一般的とは言えませんが、自身の内部深くまで関わった相手の一部を取り込みたいと考える人がいます。
感情や精神が振り切った、次元を超えた域に人間を食べる行為へと繋がります。
「狂人」や「元人間」のような「怪物」の範疇を超えて、ある種の「祈り」でする行為へと昇華すると良いのでしょう。
映画「スウィニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師」では人肉パイを販売しますが、この人肉パイが美味しいと店は大繁盛します。
Twitterで「牛は食べない」と言った女子高生が「ハンバーグ美味しそう!」と画像をUPしたことが反響を呼んだことがありました。
元が一体何なのか知らなければ、存外に食べられるのかもしれません。
これは逆に理屈や空腹を振り切った、美味しいから大丈夫!の精神でしょう。
元々の「人間を食べる」ということを越えて、「ただ美味しい肉」であることが重要になるのでしょう。
以上のことから、苦悩なく人間を食べようとするならば、愛する人の一部を欲するか、全く知らない状態にするかの二つだと考えます。
ここまで考えて、自らに問うとします。
まず、人間を食べたいか?
食に対して興味が薄いですし、家畜とは違って食べられるように飼育された訳じゃないでしょうし、オッサンの肉とか勘弁だし、その人の人生を奪うほどの価値を見出だせない。
よって、基本的に食べない。
基本的に、とは「私を食べて欲しい!」という人間と因果の巡り合わせで会ったとしたら…まあ、話はまず聞きたいです。どの程度のガチ加減かで考えます。
逆に人間に食べられたいか?と問うとすると。
人間を食べるという前提で、自らも人間と自称するならば、私自身も食べられることは至極当然でしょ?
でもな…アトピー性皮膚炎の薬にステロイドを使っているし、ガリガリだから肉が少ないし、父方の遺伝的に内臓の疾患があるかもしれないし…オススメはしないな…
よって、基本的に食べさせない。
基本的に、やはり「あなたを食べたい!」というガチの変態さんがいたら…取り敢えず、話はしたいね。
食べさせるかどうかは…うーん、痛くない方法があれば?いや、麻酔を使うと不味くなる?足ゴリゴリされるの我慢できるかや…?分からないね、食べられたことないから。
もしくは、唐突に拐われて、首スパッと切られてサクッと解体される手練れでそのまま箱詰めされるようなら、アリかね?
いや、変に罪悪感で躊躇されるよか、無感情に仕留められた方が良いなと。
そこに私の意思の介在はなく、ただ食べられる物へと変わるというのは、美しい気がする。
牛や豚の意思の介在を誰も知らぬ存ぜぬというならば、私の意思の介在も同じように扱われるのは生命において平等だし、食べられることに感謝するように、私を食べる知らない誰かが食べることへの祈りを捧げるのはこれまでの人生の肯定になりそうだから。
あえて、言い切る。
私は人肉として食べられても良い。
私に全く無関心か、私の一部が欲しい人ならば。
あれ?出だしは美味しいのかな?からなのに気付いたら、食べられることにシフトしている…
ここら辺でも自身が食べる、生きることへの執着の薄さが見えるな…
こんなことを考える時点で執着しているとも言えるけど。
どっちだろうな?どっちでもいいか。
長文で凄まじく忌避される内容な気がする…
でも、やはり、様々な角度から考えたいし。
成るように成るさ。
皆さんの人生が肯定されますように。