前回のコメントを取っ掛かりに考える。
「私」の境目について、私見を書いたところ、コメントを頂いた。
気合いを入れて書いた記事だけに、大変嬉しい。
卵を割ったら、黄身が二つ入っていたような、嬉しさだ。
さて、返事を書こう、としばし考える。
そして、気付く。
どのコメントも趣深く、容易にまとめることができないことに。
ブックマークでのコメントも連投は運営に嫌がられると聞いたことがある。
コメントを丁寧に書こうとすると、時間が足りない気がする。
どうしたものか、と再び考える。
そして、閃く。
コメントの返事を記事にしてしまえば良いのでは?
「私」の境目についてのコメントだ。
私以外の視点から、「私」の境目の考えを聞いているとも言える。
これは、「私」の境目の補足である。
ならば、返答と共に、思考してみても良いだろう。
…コメントを他の人が読むことを考えれば、こうしてまとめても問題ないはず…
どうも、こうしたコメントの引用をして良いかどうかの境目が分からない…
迷惑であれば、即刻消すので、お許しください。
と、事後報告。
さて、コメントをして頂いた方は3名。
最初に頂いたコメントを引用。
それに対する、私の私見を書く。
最後に、コメントして頂いた方のブログも載せる。
…最後は余計か?いや、この記事を読んだ方が他のブログに行けるようにするのも大事だ、多分…
最後の、ブログを載せることもお許しください。
では、最初のコメントから。
atamatokokoroatamatokokoroさん
私は、他者と私の境目は「意識」の違いだと思っています。体をつくる成分はほとんどが他者と同じ、きっと発生源も同じ、食べるものもほとんど同じ。ならばその人が持つ意識によって人と人が違うものであるのかなと。
体をつくる成分 、食べるものは、ほとんど同じであり、発生源もきっと同じである。
ならば、何をもって境目とするかは、その人の持つ意識によって「他者」と「私」の境目ができる。
ここで注目すべきは、「他者」の存在の認識が前提にあることだろう。
「発生源」というのは、生まれた場所やその元となった物質等の「人間」としての発生は同じ、と解釈した。
「ほとんど」というのは、朝はご飯か、パンかの違いだろうが、一般に食べる物は同じであると言う意味だろう。
境目、「私」という意識は、「他者」がいると言う意識が前提にある。
例えば、自分と背格好から、考え方、行動様式に至るまで、すべて完全に同じクローンが居たとして。
先ほどの「ほとんど」の部分もない、100%同じそのクローンは、「私」と同じ「私」であろうか?
否、完全に同じであっても、存在として数える時に、「2人」と数えるだろう。
即ち、「私」とは「1人」であるという意識であり、「2人」ではない。
これは、「私」という存在が「あなた」と言う存在を認識することを前提にしている。
「あなた」という存在、概念がなければ、「私」は存在しない。
例えば、無人島に漂着して、孤独にサバイバルしたとして。
その時に「私」という存在を強く意識することはあるだろう。
しかし、どうして「私」という存在を強く意識するかと言えば、今まで当然のように居た「あなた」、「他者」が居なくなることからだろう。
今までは相対する「1人」でしかなかったが、無人島で絶対な「1人」になる。
ならば、「他者」の存在、概念を知らない状態、記憶喪失によって、無人島に居るとしたらどうだろうか?
その時は、「私」という意識より、如何に生存するか?に思考が回るだろう。
すると、「私」の自意識がなくても、人は生きていけるし、生存する上では必要ない代物であることになる。
ただ、「私」という意識が「他者」によって成り立つということは、社会の成り立ちに迫ることだろう。
社会の成り立ちについては、「資本論」を読むべきだ、というのを聞いたので、今の私にこれ以上は踏め込めない。
想像で書いていける部分もあるだろうが、せめて概要だけでも読んでからにしたい。
以上、読んで思考したことだ。
コメントを寄せて頂いたのは、ブログ「小さな大学生」さんである。
では、次のコメントへ。
gemini-yahatagemini-yahataさん
「私」が発見されたのが14世紀後半、「私ってなんだろう?」と疑問が出たのが18世紀前半。近代的問題に、結構切り込んでいると思います。
近代的問題に切り込めてますか…何と恐れ多いことか。
いや、近代的問題に切り込めるくらいに思考したと自負すべきか。
「私」が発見されたのが、14世紀後半。
「「私」とは何だ?」と疑問が出たのが18世紀前半。
このコメントから私が考えたことは2つ。
1つ、現在は21世紀であり、「私」が発見されたのが14世紀後半、およそ650年前である。
また、「私」について思考され始めたのが、18世紀前半、およそ300年前だ。
「上の小枝の怠け者」である私の思考は、古くは650年前からある。
そして、私が書いた記事の内容は、300年前にはすでに通った道である。
人の思考は光よりも早い、300年もあれば、手垢がびっしりと着いた古本のような思考を繰り返したことだろう。
この「私」については、おそらく西洋の文献ではないかと偏見している。
東洋と西洋では思考が違う。
例えば、風船が飛んでいる様子を見て。
東洋の人は、「風に吹かれて飛んでいる」と考え。
西洋の人は、「風船に穴が空いていて、そこから漏れた空気で飛んでいる。」と考える。
即ち、東洋は外部の影響と考え、西洋は内部の問題と考える。
私の偏見で、西洋は内部の問題をよく意識しているのではないか?と考えている。
ただ、東洋西洋どちらにせよ、650年前に「私」が発見されたということは、それ以前、「私」は存在しなかったことを意味する。
前述で、記憶喪失した上に無人島に漂着した例を上げたが、650年以前は生存することが重要だった、と想像する。
つまり、「私」を発見する、時代の契機、きっかけがあったということだ。
「私」を発見する契機とは一体なんなのか?大変興味深い。
2つ、「私」が発見されたのが14世紀後半、「「私」とは何だ?」と疑問が出たのが18世紀前半。
およそ350年の開きである。
350年、その間、「私」があるという認識なのに、そのことについて何も疑問を持たずにいたということだ。
これが不思議である。
文献に残る、記録するに値するレベルになるまで、350年はかかり過ぎではないだろうか?
それとも、やはり、「私」についての追求はそれほど大したことではないのだろうか?
350年、おぎゃあと生まれた赤子さえ墓場で眠ってしまい、墓参りに来るのが顔も見たこともない年老いた子孫とその孫くらい、長い。
いや、今でこそ平均寿命は伸び、80歳まで生きるのが普通になってきたが、当時はもっと短かったはずだ。
調べてみたら、18世紀頃は35歳前後だった。
350年の感覚は、自分の人生を10回はする計算になる。
今で言えば、800年先の未来だ。
ただ、今の私の年齢である30歳で、当時は年寄りであった。
そして、今の時代には、云々と思考するゆとりが十分にある。
疑問を持つ暇がなかった、と考えるのが妥当か?
だとすれば、やはり、18世紀前半の「「私」とは何だ?」の疑問を持つ契機が俄然気になってくる。
これは、読まなければならない本が増えた…?
嗚呼、時間が足りない。
人生10回分の時間が欲しい。
以上、読んで思考したことだ。
コメントを頂いたのは、ブログ「CHUFF!! チャフで行こうよ。」さんである。
最後のコメントへ。
syaoruuさん
必要最小限まで肉体を削ぎ落した場合、脳に酸素と糖分を供給できる設備や機械があるなら、「私」と言う個の存在は脳だけになる。
必要最小限、脳に酸素と糖分を供給できる設備や機械があれば、「私」の個の存在は脳だけになる。
それは、脳が「私」の境目であると言える、とも解釈できる。
「私」という意識が脳によって作られた、とする考えは哲学において重要だろう。
現に脳科学で道徳の観念を調べる実験、「トロッコ問題」がある。
「トロッコ問題」とは。
………
トロッコのレールの上で作業をしている5人がいて、その5人に向かって暴走したトロッコは走ってきている。
このまま行けば、5人は間違いなくトロッコに轢かれてしまう。
5人が気付くことはないし、トロッコが脱線することも叶わない。
しかし、手元にトロッコの行き先を変えるレバーがある。
今、レバーを操作すれば、5人は助けることができる。
しかし、レバーで行き先を変えた先、別の作業をしている1人がいる。
こちらもトロッコに気付くことはないし、作業を中断する様子もない。
レバーで行き先を変えれば、その1人は間違いなくトロッコに轢かれる。
レバーを操作して、5人を助け、1人を死なせるか。
レバーを操作せずに、5人を死なせ、1人を生かすか。
………
この「5人か1人か」は幾つかバリエーションがあって、それら幾つかのバリエーションで聞いた質問の答えを脳のどの部分が判断しているのか、調べているのだ。
判断するのは、「私」であり、道徳を有するのは、「私」とするならば。
脳こそが、「私」であると意見もあって然るべきだろう。
では、設備や機械によって維持されている脳が、「私」を獲得することはあるのか?
例えば、夢を見ることはあるだろう。
しかし、その夢は果たして、脳が見ているのか?
つまり、途中から人間から摘出された脳であるのか。
または、細胞を培養するところから作られた人工の脳であるのか。
ある一定の期間、人間として過ごした後、脳を摘出した場合。
脳が見る景色は、その人間が培った経験を元に、再現するだろう。
そして、その景色の中には、「私」は保持したままである、と考えても良いだろう。
何故なら、すでに「他者」の存在は認識した後であろうし、脳を摘出する上で多くの人に「あなたはそれで良いの?」と聞かれるはずだ。
ならば、「私」はこれで良い、と答えを言えるまでの「私」の認識を深めた上で摘出すると考えるのが妥当だ。
その上で、脳が「私」の境目であると言えるが、それは施設で働いている、外からの人間からの視点だ。
脳だけの存在になったら、見る景色は脳内の景色であり、脳内の景色の中で「私」を構築すると考えるならば、実際は液体の中で電極やチューブに繋がれた脳であっても、脳が見る景色の中の「私」は脳を摘出する前の姿形をしているのではないか?
ならば、脳の中の「私」の認識する「私」という意識は、脳が作り出す姿形を持って「私」と指す、と愚考する。
一から培養した、人工脳であった場合。
iPS細胞がある現在、一から培養して人工脳を作り出す技術はそう遠くない未来、実現可能だろう。
しかし、その人工脳を脳のまま、機械に繋ぎ止めた場合、「私」はあるのか?
例えば、施設の人間が、電子パルスを送るボタンを押して、脳の各部位を刺激して、そうして刺激された脳は、夢を見ると仮定して。
更に、その夢の積み重ねによって、脳が「私」を獲得することがあったとして。
その場合、本当にそれは「私」なのか?
人工で「私」を作り出せるとしたら、「私」の正体は電子パルスであることになる。
脳の中の「私」は、「私」が思考や行動を積み重ねた結果、「私」を獲得したと考える。
しかし、実際は、「私」は外部の人間の電気パルスを送るボタンによって形成されたものだ。
即ち、人工で「私」は作れるのか?
人の性格は、遺伝要因と環境要因で決まる。
先祖代々からの遺伝子の情報からか、家族や友人などの関係からか。
人の性格の原因を探るに、この2つの要因がある。
人工脳は、完全培養であり、遺伝子の情報はないとする。
また、脳だけで機械に繋がれたままなので環境の関係もない。
遺伝要因も環境要因もない、全く新しい「人類」が生まれる。
しかし、果たして、それは私たち人間と同じ生き物だろうか?
それとも、人間によってデザインされた究極の良心を持った人間が作れたら、それは歓迎すべきことなのだろうか?
疑問が尽きないが、「私」という意識、概念そのものが覆される事態になることは疑いようもない。
「私」をデザインされた人間、それはどんな人間なのか、会えるなら会って話をしてみたい。
以上、読んで思考したことだ。
コメントを頂いたのは、ブログ「新しい、パソコンを☆買いたい!」さん。
コメントの返答を書いていたら、前回より長くなった。
明日はきっと眠くて辛くなるだろう。
しかし、充足感はある。
改めまして、コメントして頂いた3名の方、ありがとうございました。
以上、「私」の境目の補足を区切る。
長々とご精読、ありがとうございます。