暗闇を取っ掛かりに考える。
1月12日の夜更けに、私はオープンマイクのイベントに参加していた。
誰でもステージの上で好きにパフォーマンスができるオープンマイクは、様々な背景の人たちが参加する。
「ステージに上がりたい人は挙手で」と主催者の方が声を上げ、誰ともなく手が挙がり、パフォーマンスを披露する。
何度目かの「次にやりたい人は?」の声かけの時に、私は意を決して手を挙げた。
ステージに上がると、手狭な会場がよく見える。
マイクを一本用意してもらい、逸る鼓動を押さえ付けながら、私は主催者さんにあるお願いをした。
「私が「お願いします」、と言ったら、明かりを消してください」
主催者は面食らった様子であったが、快く受けてくれた。
そうして、私の合図と共に、照明が落とされた。
最初は暗闇で何も見えないのだが、自然と足下からぼんやり、人の姿が見えてくる。
千草色にそれぞれ人の輪郭や、衣服の縁取っている。
しかし、その顔は墨を零したように、黒く見えない。
暗闇の中、私はマイクに向かって喋った。
何故、暗くするのか?
理由は様々にある。
それは。
私は、「私」を追求している。
「私」を追求する中で、最近は、この身体こそが「私」ではないか?と考えるようになった。
著書「弱さの思想-たそがれを抱きしめる-」の序盤に、愛を伝えるには身体が必要だ、といった趣旨が書かれていた。
身体があるから、「私」と「あなた」を分け隔てる。
身体があるから、「私」は「あなた」に触れることができる、ぎゅっと抱きしめられる。
空間を限定し、時間を現在に留めて、老いや病や死を迎える、この身体こそが「私」ではないか?
故に、身体そのものの境目が「私」の境目だ。
だとするならば、暗闇の中、話している「私」と「あなた」の境目は何処にあるのだろうか?
身体の境目が、暗闇によって隠されてしまった。
今、こうして、話しているのは、「私」なのか?それとも「あなた」なのか?
暗闇は、境目をなくす。
それは。
暗闇とは、内省する装置ではないだろうか?
Twitterで以下の文句があった。
沈黙の実りは、祈りだ。
祈りの実りは、信仰だ。
信仰の実りは、愛だ。
愛の実りは、奉仕だ。
奉仕の実りは、平和だ。
___マザー・テレサ
沈黙をする場面は様々だが、沈黙は何の実りか?と考えれば、内省・内観ではないだろうか?
自身を振り返ること、振る舞いを考えることにまず、自分の内へ入り込むから、沈黙する、と私は考える。
そして、内省するには、暗闇は打って付けだ。
もしも、私が、ここで話すのを止めたら、訪れるのは、静寂だろう。
暗闇は、平和へと繋がる、かもしれない。
それは。
目に見えないからこそ、次に期待する装置になるのではないか?
見えないからこそ、次の展開を期待させる。
何が起こるか、視覚の情報が閉じられた中、他の五感、耳や肌で感じ取ろうとする。
何も起きないかもしれないし、とんでもないことが起きているかもしれない。
暗闇は、未来を見せてくれる。
「というすべては建前で、本当はやってみたかったから、やってみた」
どうなるか分からないから、やってみた。
私は事も無げに、そう言った。
観客としては肩すかしも良い所の、あまりに自分本位な結末だ。
暗闇は、手元さえ隠す。
だから、自身の内に自然と向かうように感じる。
だから、内の中の、明るさを求めるのかもしれないし、暗さに気付いてしまうかもしれない。
かもしれない、私には丁度良い言葉だ。
暗闇は、都合良く、自分本位な私を隠す。
何となく、満足して、照明を着けてもらう。
ぱっと着けられた照明に、目が眩んだ。
嗚呼、地面に影で縫い付けられるように、私をその場に留めさせる光だ。
光とは、何て恐ろしいのだろうか。
最後、私は、胸の内で悲嘆しながら、舞台から降りた。
夜が更ける、1月12日に、私は暗闇を手に入れた。