似た言葉を用いている気がする。
ほら、「気がする」は、よく使う言葉だ。
よく使う言葉の傾向は、本質を写すの鏡だ。
「かもしれない」もよく使う。
「多分」もよく使う。
曖昧模糊な表現が多いことが分かるだろう。
確からしいことを求めているのに、言うこと、書くことぼんやりしている。
朝の霧の奥深くに見える自転車のライトのように、ぼんやりとしている。
または、試験管に入れた水に数滴の試験薬が広がるように、ぼんやりとしている。
世の中には色々な考え方がある。
話を聞けば、一理ある、と膝を打つ。
そうして、色々な考え方を知っていくと、自分の考えの粗が目立つように感じられる。
私が希薄なのは、絶対とする私自身の核がないからだ。
絶対とする核がないのは、自分の考え方に信念がないからだ。
自分の考えに信念がないのは、私が間違えるしかできないからだ。
そうした私の間違えを、様々な正しさが指し示す。
私は、「その考え方は間違っている」と、他の人に否定できるほど、私自身の密度がない。
もっと自分の密度を上げるよう、とは考えてはいる。
色々な事柄に興味を持てば、何時か、私の核ができる、多分。
世界の密度に弾かれ続けて、ぼんやりとする私の輪郭を、なぞってみる1月かな。