温まった自動車から降りて、冷気が私の身体を包む。
そして、「寒い」とは言い難いが、「寒い」という感覚をある。
これを言葉にするには、どうしたものか?
身体に触れる空気は、「冷たい」と言える。
しかし、その「冷たい」は「寒い」訳ではない。
かと言って、「涼しい」は違う。
短く刈った髪の先や、耳の上半分は「凍える」ように「寒い」。
しかし、大きく息を吸い込む空気は「清涼」で、「寒い」とは違う。
吐く息は白く、間違いなく「冷たい」はあるのだが、私の身体の感覚とズレがある。
「厳かな」と言うには、仕事前の気怠さが肚の底から私の両足を支配していて、ピリッとしていない。
「慣れ親しんだ」と言うには、いつも感じる、骨の髄の熱まで奪うほどの「凍え」は感じず、グダッとする。
春がすぐそこまで来ているが、「暖かさ」は残念ながら感じない。
この、「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚を該当する表現が、私の中に無い。
だから、「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」と、どっち付かずの中途半端な言葉になる。
そも、「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」が言葉にするべきことか?と聞かれるとそんなことは全くない。
私自身が分かっていれば済む、私自身の僅かばかりの繊細さの表れだ。
「あー、今日はいつもの寒さと違うな」で済む、実に詰まらないことだ。
その実に詰まらないことを言語化しようとすると、途端、とんでもなく難しくなる。
私の感じていることをそのままに表すことの、何と曖昧なことか。
表現することの格闘とは、自身が感じたことをどう他者に正確に伝えるかの試行錯誤だろうか?
表現しなければ気が済まない人ではない私は、「表現者」の心理を深く読めない。
しかし、「確からしいこと」を追い求めると私の中に「確からしいこと」などないのではないか?と感じてしまう。
今回の「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」は、私にとって確かに「確からしいこと」なのだが、その感覚を言語化できないということは、伝聞の手段が失われているので、残すことができない。
残すことができないということは、即ち、私の「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」を証明することができないことを意味する。
私が感じているのに、私はその証明さえできないこの感覚は、果たして「確からしいこと」と言って良いのだろうか?
何もかもが曖昧模糊な冷気の中、ただ、「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚を感じた瞬間を慈しむ。
慈しんで、何時か正確な言葉を覚えた時に、その正確な言葉で呼んであげたい。
今は、私の薄さを噛み締めて、顔を上げることにする。