1年と半年、当記事で589記事目になる。
ここ数日、言葉にすることの難しさに直面している。
いや、いつも目の前には立ちはだかっていた雲上まで届きそうな高い壁はあった。
その壁を改めて間近でじっくりと眺めて驚いている、と言った方が正しいか?
「書けない」ことを記事には幾つかした。
しかし、「言葉にできない」ことを記事にするのは初めてではないだろうか?
似た事象ではあるが、「書けない」ことを言葉にすることはできるが、「言葉にできない」ことには「書けない」ので、本質としては「言葉にできない」ことの方が根が深い。
色々な記事を読み、自分でも書いてて感じることは、毎日書くのはしんどい。
質も量もある記事を1週間に1回でも投稿すれば、十分な気がする。
毎日がスリリングでエキサイティングな人は、朝の出来事を投稿するだけでも読まれるのかもしれない。
しかし、平々凡々な私の日常は、「起きる、出勤する、働く、退勤する、食べて寝る」をニュートンのゆりかごのように私を動かすエネルギーは常に一定で変わらない。
何せ、常に一定で変わらない日常を送っているから、私の体験することなど高が知れている。
本もそれほど読まず、テレビも新聞もそっちのけで、内へ内へと籠もっていき、薄く薄く私が透明になっていく。
そうした毎日で、私の毎日を書こうとすれば、自然、同じことを書くことになる。
1月、何遍も何遍も同じことを書く。
2月、何遍も何遍も同じことを書く。
3月、何遍も何遍も同じことを書く。
4月、何遍も何遍も同じことを書く。
5月、何遍も何遍も同じことを書く。
6月、何遍も何遍も同じことを書く。
7月、何遍も何遍も同じことを書く。
8月、何遍も何遍も同じことを書く。
9月、何遍も何遍も同じことを書く。
10月、何遍も何遍も同じことを書く。
11月、何遍も何遍も同じことを書く。
12月、何遍も何遍も同じことを書く。
そして翌年も、何遍も何遍も同じことを書く。
何遍も書けば、言葉の強度が増すこともある。
だが、大概は曖昧さでよく分からなくなるばかりだ。
それでも何遍も書く私は、阿呆なのかもしれない。
言葉にできないまま、投稿します。