Googleのメールにはてなブログから「1年前の記事を読み直してみませんか?」と着た。
はて、1年前にどんな記事を書いたのだろうか?と開いてみる。
ああ、何故、私は思考するのだろうか、と考えていた時期だ。
ふと、思考するのも、この身体があるから思考することができる、当たり前の事を考える。
身体があるから思考ができるということは、思考することとは身体からの発信である、のだろうか?
読み直す次いでにリライトすると、宇宙、地球、ご近所と規模がどんどん小さくなっていって、最後は神さまと急に知覚外のものに頼り始めて終わる。
身体が思考すると考えると、もっと小さく考える必要があるのかもしれない。
即ち、細胞規模で何故私は思考するのか、を考えても良いかもしれない。
リライトらしいリライトになるかもしれない。
それにしても、1年前から拘ることは変わらないことに嘆息する。
この拘りは私なのだから、仕方ない。
ようようこれからも、拘っていく。
と、もしや、こうして1年前の記事を毎回載せれば、新規の記事とリライトの記事と読み直しによる再思考ができるのでは?と考える。
一石三鳥か、いや、おおお落ち着け、そんな上手い話がある訳なかろう。
しかし、最近は軽い倦怠感があるので、1年前の記事を拾って見るのも悪くないかもしれない。
拘り続けて、1年と半年、私の記事が私を助けてくれるようになったか。
そう考えると、トーストに乗せたバターの一欠片くらいの感慨がある。
継続してきて、良かった。