見えている「私」を取っ掛かりに考える。
道の真ん中に点々と田んぼの泥土が溺れ落ちている。
日に晒されて白くなったその土の上を、幾つもの自動車が通り過ぎる。
田んぼを見れば水を引き入れており、その水面に見事な鏡として、空と雲と山を写している。
鏡、鏡面に反射された鏡像を私は甚く気にしている。
この鏡像の私は果たして、本当に私なのだろうか?
精神を病みそうなお題目を、好き好んで選ぶ。
今回は、鏡に映る私について、つらつらと。
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目次
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1、見えていない世界は存在しない?
一昔、友人と雑談をしていた、その最中に、こんな話が友人の口から出た。
ある哲学で、視覚で見えている世界がすべてで、視覚で見えていない、例えば自分の後ろは「存在しない」とする考え方がある、と。
自分の後方であった部分に身体を反転させたとしても、目の網膜が何もなかった後方を写し取る前に、世界が瞬時に構築されていき、「後方にあった」とされる世界ができる。
即ち、見えている世界はすべて想像であり、見えている世界がすべてである。
同時に、見ていない世界は「見ていない」のだから、この世界に存在しない、となる。
聞いた当時は何度も振り返って、この振り向く速度よりも早く世界が構築しているのか、と単純に考えていた。
現在、何となく当時のことを思い出していた時、にわかに疑問が浮かんだ。
鏡に映る私は、私の自意識である「私」が作り上げたのだろうか?
見なければ存在しない私の顔は、鏡を見たことによって瞬時に構築された、と考えられるからだ。
もし「私」が見て、私の顔を作り上げたのだとすれば、何故こうも私の顔は醜いのだ?
「私」が作り上げたのであれば、180cmの上背があり、腹筋が割れた細マッチョで、金髪碧眼であり、その容姿からはダンディズムが滲み出ている、そんなイケメンの顔を映し出しても良いはずだ。
なのに、鏡に映っている私は、170cmのチビであり、肋骨が浮き出たガリガリで、若干のM字ハゲと冴えない一重の眼であり、その容姿からは気色悪さしか感じ得ない、荒れた肌の醜男が映る。
この鏡に映る姿が、「私」が作り上げたと言うのか?
そも、鏡に映っていない私は、何処に居るのだろうか?
目にしなければ見えず、見えなければ存在しないのなら、「私」という自意識を持っている私は何なのか?
見ていなければ、私はいないのか?
そして、自意識である「私」とは何なのか?
兎角、映し出すことを様々な角度から考えてみたい。
2、水面に映る姿。
もし、鏡がなければ、水面に映る姿が私だろう。
古代の、鏡面を磨く技術のない時代であれば、水たまりに映る顔が自信の顔を認識できる手立てになるであろうことは容易に想像できる。
では、水面に映る姿は果たして、本当に私なのだろうか?
ナルシストの語源となったナルキッソスの話をご存知だろうか?
私は水面に映る、と考えて真っ先に思い浮かんだ、ギリシア神話の登場人物だ。
ナルキッソスはギリシア神話の中でも著名だが、その話についてはいくつかの説がある。
盲目の予言者テイレシアースは占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。
若さと美しさを兼ね備えていた彼は、ある時アプロディーテーの贈り物を侮辱する。
アプロディーテーは怒り、ナルキッソスを愛する者が彼を所有できないようにする。
彼は女性からだけでなく男性からも愛されており、彼に恋していた者の一人であるアメイニアスは、彼を手に入れられないことに絶望し、自殺する。
森の妖精(ニュンペー)のひとりエーコーが彼に恋をしたが、エーコーはゼウスがヘーラーの監視から逃れるのを歌とおしゃべりで助けたためにヘーラーの怒りをかい、自分では口がきけず、他人の言葉を繰り返すことのみを許されていた。
エーコーはナルキッソスの言葉を繰り返す以外、何もできなかったので、ナルキッソスは「退屈だ」としてエーコーを見捨てた。
エーコーは悲しみのあまり姿を失い、ただ声だけが残って木霊になった。
これを見た神に対する侮辱を罰する神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスが、ただ自分だけを愛するようにする。
ネメシスは無情なナルキッソスをムーサの山にある泉によび寄せる。
不吉な予言に近づいているとも知らないナルキッソスが水を飲もうと、水面を見ると、中に美しい少年がいた。
もちろんそれはナルキッソス本人だった。
ナルキッソスはひと目で恋に落ちた。
そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだ。
また、水面に写った自分に口付けをしようとしてそのまま落ちて水死したという話もある。
ナルキッソスが死んだあとそこには水仙の花が咲いていた。
この伝承から、スイセンのことを欧米ではナルシスと呼ぶ。
また、ナルシストという言葉の語源でもある。
ここで、水面に映る姿がナルキッソスはナルキッソス本人と知らなかった訳だ。
その自分の姿に恋するくらいに、ナルキッソスは美少年である。
問題は、ナルキッソスは水面に映らなくても、周りから愛されるくらいの美少年っぷりな点だ。
恐らく、泉で自身の顔を見るまでは、自分の顔など知らなかっただろう。
ナルキッソスは自身の顔を見ていないにも関わらず、美少年であり、水面に映る姿も美少年であった。
なら、鏡に映る姿が想像ではないのだろうか?
別の水面に映る姿について、私は漫画「シグルイ」に登場する屈木頑之助を思い出す。
屈木頑之助(くつき がんのすけ)通称:蝦蟇(がま)。
『駿河城御前試合』の一遍「がま剣法」の主人公で、がま剣法の使い手。
巨大でイボだらけの醜い頭部、つぶれた鼻に離れた両眼、短い手足とまさに「蝦蟇」そのものの容貌。
元舟木道場の剣士で、仇討場に現れる。
藤木の「簾牙」と伊良子の「逆流れ」が交錯した瞬間にも両者の剣の軌道を見極めていたことから、この時点で剣の実力は相当なものだったと思われる(伊良子を除けば、屈木以外で藤木の左腕切断を見極めることができたのは牛股だけ)。
幼少の頃に一伝斎に拾われ、育てられた。
それまで体験したことの無いような優しい対応をとられて以来、千加に思いを寄せており、偶然にも千加の秘密を知ったことで執着するようになる。
しかし、千加が頑之助に対して優しいのは、恋愛対象どころか人としてさえ彼を見ておらず、いわば家畜に対するそれと同様の心構えで接していたためであった。
意欲を見込まれて「兜割りの儀」に参加するが(これに成功したものが千加と結ばれることになっていた)、一伝斎に理不尽な手段で妨害され失敗。
さらには、千加から本気の嫌悪感を向けられたことで、脱走する。
その後、醜いはずの自分の顔が美青年に見えてくるなど、精神に異常をきたし、「兜割り」を成功させ千加からも好意を向けられる他の剣士を、ことごとく闇討ちにする。
精神の異常とあるが、蝦蟇のような容姿であったが、屈木頑之助には水面に映す顔が美少年に見えた。
ナルキッソスも神ネメシスの「ただ自分だけを愛する」という呪いを受けたから、美少年に見えた、とも考えられる。
共通しているのは、自己を認識する自身の状態が平素ではなかった、という点か。
そうすると、私が鏡に映る姿を醜く感じるのは、私が正常だからか?
少なくとも「認識する」ということにおいて、「私」の自意識が関与しているだろう。
自意識が関与していないのであれば、鏡に映る姿を歪めて(若しくは正しく)認識できないからだ。
3、世界の「こちら側」と「あちら側」。
鏡の紀元を探してみると、以下の記述があった。
鏡の起源は人類と同じほど古い。
最古のそれは水鏡(水面)に遡るからである。
鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされる。
鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得た。
鏡に映った自分を自分と認識できる能力を「自己鏡映像認知能力」と呼ぶ。
自己鏡映像認知能力の有無は動物の知能を測るための目安となる。
チンパンジーなどにおいては、鏡に映る姿を自分自身として認識し、毛繕いのときに役立てるという。
チンパンジーのように鏡を利用するまで至らないが、自己鏡映像認知能力がある動物として類人猿のほか、イルカ、ゾウ、カササギ、ヨウム、ブタ等が挙げられる。
en:Mirror testも参照。
鏡に映像が「映る」という現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられた。
そのため、単なる化粧用具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格を帯びていた。
鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。
「自己鏡映像認知能力」に注目したい。
何故なら、鏡に映る姿を自己と認識するということは、自意識である「私」が鏡に映る姿が私であると認識するということだからだ。
即ち、鏡の前に立った時、映し出される姿の人物が私と同じ動作をし、それが鏡の前であれば変わらないことの積み重ねから、鏡に映るその顔が私の顔だ、と推察し、認識するということだ。
それは、何時何時であろうと、朝であろうが夜であろうが、日に何度も鏡の前に来た時でも、数日振りに見た時でも、映し出される姿の人物は私と必ず同じ動作をすることからの推察だ。
しかし、鏡に映るのが私である推察は、必ず同じ動作をするから、という認識からだ。
鏡の記述に、世界の「こちら側」と「あちら側」と分け隔てている、とある。
瞬時に世界を構築されるのであれば、私が次に動作をする瞬間を「あちら側」で構築している、とも考えられないか?
ふと、鏡に映る人物に向かって「お前は誰だ?」と問い続ける、というものを思い出す。
B級ホラーで、最後はよく分からないオチであったが、ここではその前の過程を書きたい。
確か、最初は何の気なしにやっていたが、次第に様子がおかしくなっていき、終盤では、ボロボロの状態になっていた。
これは、自己の否定、鏡に映る人物を私ではない、別の人間だと認識しようとした結果、脳内で混乱が生じたために、精神に異常を来した描写、と見れる。
これは、鏡に映っている私が私である、という認識に基づいたものだろう。
しかし、鏡を産まれて初めて見る段階から、「お前は誰だ?」をした場合、どうなるだろう?
鏡に映る人物は私と同じ動作をするが、私ではない、となるはずだ。
なら、この場合において、私の顔を認識していないとなる。
私の顔を認識はしていないが、鏡に対して問答をする人間、即ち、私はいる。
私を認識するとは、私という身体ありきなのだ。
なら、鏡に映る前から、私があって然るべきではないか?
私の身体があるなら、観測する、この目は、一体なんであるのか?
4、目で見ることは、距離を測ること。
人間の目が前方に2つあるのは、距離を測るためだ。
左右の目のそれぞれ見た物体を脳内で照らし合わせると、右目で見た物体と左目で見た物体の画に誤差が生まれる。
その誤差を脳内で埋めると、物が立体に見え、距離が測れる。
もし、見ることで世界が構築されるのであれば、人間の目で見るこの世界の距離が重要ではないだろうか?
そうすると、ナルキッソスと屈木頑之助は距離感が狂ったために自身の姿を捉えられなくなった、とも考えられる。
「自己鏡映像認知能力」は、鏡に映るのが自分であると認識するのは、目で見える手や足の動作を認識している、自身の身体との距離を把握しているからではないか。
「こちら側」と「あちら側」と隔てる、という認識は、隔てるだけの距離があるという認識とも言える。
そして、距離を測ることがそのまま、鏡に映ることに適用しているとするならば、私と「私」の距離感が出てくるのではないだろうか?
ならば、私はこう考える。
あえて、言い切る。
鏡に映る姿は、私と「私」との距離を表している。
こう考えると、私と「私」の距離感が醜い私を映し出している、とも言える。
何故なら、私に自信があれば、どんな姿であっても、「醜い」とは考えないはずだ。
しかし、私の身体は怠けようとし、怠けようとする身体に引き摺られて思考も怠け、「私」の姿を形作っていく。
目で見る姿が瞬時に構築される、その前に、私はせっせと「私」を醜くしている訳だ。
ならば、少しでもまともな身なりにするにはどうすれば良いか、簡単な話だ。
私が成りたい「私」へ向かえば良いのだ。
背伸びをする、ここでも「理想の私」へ向かう身体の距離で表現されることからも、この考えはそれほど間違っていないように感じる。
5、空と雲と山は。
何れ、私のこの目に映し出されるのは、きっと金髪碧眼のイケメンに違いない。
それはもう、間違いなく、そうに違いない。
きっとそうだ、この目を信じれば良い。
私は距離を間違えていなけらば、の話だが。
しかし、物事を見るのに、距離を測るのは大事だろう。
そして、物事を測る基準は、きっと見たままの姿形が影響されるだろう。
見たままの姿形の距離が、その人の感性にきっと影響しているはずだ。
とするならば、田んぼの水面に映し出される空と雲と山が美しいのは、空と雲と山との距離が映し出されているからだろう。
その距離を測っているのは、他ならない、この目を有している私だ。
この感性を育ててくれた、この目に私は感謝するべきかもしれない。
良い目を持った、とそんなことを考え、田んぼの泥土を跨ぎながら、道を行く。