仕事場での道すがら、松川村を通り抜ける。
その松川村に「松川村は有害図書自動販売機No!宣言をしています」と掲げた看板を見かける。
有害図書とは、即ち「大人の本」等であり、子どもにとって有害な物だ。
ある一定の年齢になれば、大人の本は一種のファンタジー、空想の産物であることは分かるだろう。
しかし、ファンタジーにしては生々しさが際立ち、子どもに見せるには滴さない。
有害図書と名指しするのも、仕方ないか、と考える。
ところで、「松川村は有害図書自動販売機No!宣言をしています」の看板から300mほど離れた場所に、小屋がある。
無機質で無骨なトタン板でしっかりと囲まれている、小屋がある。
まさか、と感じるが、有害と名指しされている小屋ではないか?
小屋の前は自動車で乗り入れるのに十分なスペースがあり、恐らく、自動車が何度か通ったために草木が生えてない箇所がある。
ゴミ集積所なら、曜日毎の回収するゴミについて書いた案内があるはずだが、貼られていない。
農具の置き場やガレージなら、周りに何かしら置いてある気がするが、小屋の周りには何もない。
唯一、貼られている案内が、「半額」と書かれたピンクと白のツートンの広告だけ。
怪し過ぎる…いや、しかし、目と鼻の先に看板がある…
あの看板を無視することは、できるのか?
今朝方、5時頃、かなり明るいが人も自動車も見かけない道を快走した。
ふと、例の小屋が目に入った。
…周りに誰もいない、今が確認するチャンスでは?
私有地の、ただの小屋なら、謝りながら出ていこう。
遠くに、しかし、しっかりとあの看板も見える。
まさか、ね…と自分の想像を手で払いながら、横付けして覗く。
その、まさかであった。
そろそろと出て、自動車を発車させる。
例の看板が睨んでいるような気がして、身が縮む。
覗いただけ、と言っても許してくれそうにない。
想像する、あの看板は役所がある程度関係しているだろう。
あの看板を掲げるくらいだから、有害図書自動販売機の設置された場所も把握しているだろう。
つまり、私が訪れたあの小屋が有害図書自動販売機であることを知っていることが前提にあっての、「松川村は有害図書自動販売機No!宣言をしています」の看板なのだ。
もし、小屋が先にあったなら、わざとあの場所に看板を設置したことになる。
もし、看板が先にあったなら、やはりわざとあの場所に小屋を設置したことになる。
物々しい、完全に抗争しているではないか…?!
これは確かに有害だ、大人のドロドロした争いがひっそりと、しかしバチバチと火花を散らしていたとは…
知らないとは幸せだ、知らなければただの看板とただの小屋でしかない。
子どもがこの生々しさを知るには、早い。
何れ大人になるまだ子どもの君へ、怖がりながら、前へ進み給え。
いきなり飛び込まない方が良い、心臓に悪いから。
ゆっくりで良い、何れ知るとしても、ゆっくりで良い。
子どもの未来を憂いながら、さもしい私は目を伏せて、看板と小屋の前を通り抜けた。