鏡を見たら、鼻毛が飛び出ていた。
異質な突出物が私の右側の鼻孔からその存在感を存分に開けさしていた。
その存在感たるや、群馬県の高崎白衣大観音像や茨城県の牛久大仏像と比べても遜色ないくらいだった。
鼻毛をそっと掴むと、一気に引き抜いた。
想像していたよりも容易に、あっさりと抜けた。
私の鼻孔から抜けた鼻毛は1cm強はあった。
あまりに立派だったので、私は軽く水洗いをしてアルコール殺菌をした。
そして、その鼻毛を自分の持ち物の傍に置いた。
後で写真にでも撮ろう、そう考えていたのだ。
暫くして、ゆっくりできる時間があったので、しげしげと鼻毛を見てみた。
大きさは前述した通りの大物であると同時に、指先でゴロゴロとした感触があるくらいにしっかりとした芯があった。
毛先はほんの少しだけ白くなっていて、私の体内にそれなりに長い時間いたことが伺える。
その巨躯に相応しく、毛根も視認できる。
艶のある美しい光沢からは、十分な栄養を補われていたことが分かる。
パサパサな私の頭の毛よりも、鼻毛の方が毛としての位は上ではないか、と感じるほどだ。
「私」の境目について、考察していたことを思い出していた。
私の爪も、私の髪の毛も、私が意識するから「私」が現れる。
この鼻毛も、「私」の自意識を意識すれば、「私」の境目となるのだろう。
そう考えて、鼻毛から、「私」の自意識を見出そうとしてみた。
しかし、考えていた以上に、鼻毛は鼻毛としての存在感で私の意識を支配し始めた。
「私」という自意識の存在感よりも、現実の鼻毛の存在感の方が余程「確からしいこと」だったのだ。
鼻毛の存在感に負ける「私」とは何だろうか、と若干落ち込む。
しかし、この「私」を圧倒する鼻毛も、元は私の身体から抜け落ちたものだ。
と、理屈で考えても、やはり、鼻毛は鼻毛だ。
どの角度からも見ても鼻毛だな、と感慨に耽っていた。
軽く指先で転がしていたら、勢い余って手から落ちてしまった。
慌てて、落ちたであろう鼻毛を探してみたが、見当たらない。
あれだけ立派で「私こそが鼻毛だ」と主張していた彼の物は、刹那の瞬間に消えてしまった。
実在する鼻毛が消える訳がないので、隈無く探せば見付かるはずだが、僅か1平方メートルがサハラ砂漠のように感じて、途方に暮れてしまう。
もう少し早く、写真に収めておけば…と悔やまれる。
私の鼻毛は、今、埃まみれでいるだろうか?
私の鼻孔にいた頃も、外気からの埃などを防いでいたから、存外違和感がないかもしれない。
もしかしたら、自由になったから、私の鼻孔にいた頃よりも楽しんでいるかもしれない。
旅立つ鼻毛に、私から。
さらば、鼻毛、達者で暮らせよ。
などと、鼻毛の行く先を意味もなく案じてみる。