あまり気分の良い話ではない。
神や仏に懺悔したところで、どうにもならないことだ。
自分のしたことに暗鬱になった。
命とは大切なもので、誰もが尊重すべきことだ。
大人が子どもにそう教え、諭す。
生物としての生存本能を理屈で説明する。
しかし、命が大切なら、決して殺してはならないのだろうか?
人間以外の、動物の命も尊重すべきものではないのか?
それは、勿論、虫の命も含まれるだろう。
ただただ暗鬱な気持ちを吐き出した。
これは、言うなれば…
或るマイマイガの最後と、身勝手な私の話しだ。
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本文
私の働く場所は、油揚げの製造と袋詰めをする工場だ。
せっせと豆腐を揚げ、袋に詰めて行く。
袋に詰められた製品は、巨大な冷蔵庫に一時貯蔵される。
その油揚げの製品をトラックに乗せるための箱は、外に置いてある。
工場の敷地内の、屋根のある場所に錆びたカゴ台車に積まれてある。
必要な箱の分だけ工場内に運び、製品を入れた箱を巨大冷蔵庫まで運ぶ、この日の私の仕事の一つにそうした箱の出し入れがあった。
工場内の箱が少なくなったので、外から2つほど引っ張っていこうと、のろのろと動きながら適当に見繕っていた。
生欠伸をしつつ、あるカゴ台車の前に来て、ぎょっとして目が覚めた。
そこには、1匹のマイマイガが息を潜めながらじっと止まっていたのだ。
普段見慣れているアリやダンゴムシの大きさは、精々数ミリで、指先に乗る程度の大きさだろう。
私が見たマイマイガは、両手で捕まえたとしても、羽や触覚が指の間から食み出るだろうと容易に想像できるくらいの大きさだった。
手の平サイズの虫というだけでも、中々にグロテスクだ。
マイマイガの茶色の羽は、地味ながら調和があり上品さがあった。
ただ、怪獣映画に出てきそうなけばけばしい触覚や、芸能人が使う馬鹿でかいサングラスのような目がどうしても目に引いた。
悲しいかな、マイマイガの地味な茶色の羽が、そうした触覚や目をより際立たせているように感じた。
私が見かけたマイマイガは、しかし、何処か元気がなかった。
ここが森の中であれば、枯れ葉と見紛うだろう。
コンクリートと錆びた鉄製のカゴ台車に紛れて、あまりに目立つその容姿で、マイマイガはピクリとも動かなかった。
私は軽く突いて見ると、僅かながら羽を上下に動かした。
もしかしたら、寿命なのかもしれない。
マイマイガの命は、人間の人間による人間のための施設の中、その短い生を全うしようとしていた。
そう考えると、コンクリートの上で寿命を散らせるのは忍びなかった。
ここで出会ったのも何かの縁だろう、と工場の外の植木まで運んだ。
距離にしてたった数mの移動だが、コンクリートの上よりかは増しだろう。
土の上で果ててくれよ、と考えながら、仕事に戻った。
数刻後、箱を工場に運ぼうと、カゴ台車の所に行って驚いた。
先程のマイマイガが、植木からカゴ台車の置いてある所までの中程で、パタパタと動いていたのだ。
いや、先程のマイマイガと断定して良いのだろうか?
しかし、あれだけ目立つマイマイガが2匹いたとして、もう1匹を見落とすなどあるだろうか?
それに、植木からカゴ台車の中間というのも、場所の位置関係から考えても、先程のマイマイガではないか?
念のために植木周辺を探してみるも、いない。
私の中で、確信に変わる、やはり先程のマイマイガだ。
わざわざ、土のある植木からコンクリートの工場内へ戻ってきたのだ。
こうなってくると話しが変わってくる。
私のいる場所は、油揚げの工場、食品工場だ。
虫が工場内で見かけたら、駆除しなければならない。
またカゴ台車に張り付かれて、誰かが気付かずにマイマイガが付いたカゴ台車を工場の中に引っ張っていったら、洒落にならない。
下手したら、工場閉鎖も有り得る。
彼のマイマイガがまたカゴ台車に張り付くのであれば、それを阻止しなければならない。
しかし、手の平ほどもある虫を駆除するのは、少し勇気がいる。
どうにか、目に入らないようにして、居なくならないだろうか、思案した。
視線を少し奥へ向けると、排水溝が見えた。
近付いて、鉄製のグレーチングの上から底を見た。
深さは30cmはあるだろうか、底に僅かな水と土が視界に映った。
水はけがあれば水責めになるかもしれないが、このまま放置するよりは、と幾分か逡巡し始めた。
もし、この排水溝が遠くへ繋がっているとしたら、排水溝を辿って脱出するかもしれない。
中途まで自力でここまでマイマイガは来たのだ、きっと、排水溝も辿れる。
そうすれば、私が駆除することはない。
そう思い込み、決心し、ちり取りと箒を手にマイマイガの方へ向かった。
さっと箒でマイマイガをちり取りに乗せ、そのまま歩き、一思いに排水溝に落とした。
この方法が最良だった、と自分に言い聞かせて、立ち去ろうとした。
だがその時、マイマイガがバタバタと羽を動かし、何と、排水溝から飛んで出てきた。
思わず仰け反って、数歩下がり、然れど、マイマイガの行く先に注視した。
マイマイガはひらひらと華麗に飛んでいた。
その飛ぶ姿を形容する言葉は、なかった。
そして、あろうことか、マイマイガはカゴ台車にぴたっと張り付いた。
そこはいけない、そこは、もう。
何故、そこに戻ってしまった。
植木の方へ飛んでいけば、私は何もしなかったのに、何故だ。
躊躇いが生まれる、マイマイガを駆除することに対して、迷走した。
そうだ、まだ残っている仕事があった。
その仕事を終わらせてからにしよう、と逃げるようにその場を離れた。
なるべく、残っている仕事を片付けることに集中した。
少なくはないが、多くもない残っていた仕事が1つ、2つと終わっていった。
時間にして、数十分、手元には最早、片付けるべき仕事はなかった。
カゴ台車へと向かった。
分かっていた、何処かへ行ってくれていたらと考えながら、きっと、何処にも行ってはいないだろうことは。
マイマイガは数十分前と同じ場所で、じっと、じっとしていた。
外に備え付けられたペーパータオルを数枚手に取る。
無言で、マイマイガの前に立つ。
そして、ペーパータオルをマイマイガに覆い被せた。
しかし、今度はするりと地面に落ちて、マイマイガはバタバタと逃げ惑った。
私の顔は、きっと苦い顔をしていたに違いないだろう。
マイマイガの羽を足で踏み付け、再び、ペーパータオルで覆い被した。
バタバタと蠢くマイマイガを、握り込もうと右手を見る。
刹那、マイマイガはあの大きな目で、私を見た。
私は、目を逸らし、グッと右手に力を入れ、そのままマイマイガを潰した。
ぷち、とハッキリとした音がした。
明らかに、質感があるものを潰した感触がした。
私は丁寧にペーパータオルを丸めていった、何も食み出さないように注意しながら。
後述
何故、植木から工場へ戻ってきた?
何故、排水溝から飛び出した?
何故、カゴ台車に張り付いて、そのまま何処にも行かなかった?
生きようとするなら、どれもこれも最悪な選択だ。
他の人だったら、もっと早い段階で潰されていた。
見付けたのが私だったから、あれだけの猶予があったのに。
いや、分かっている、これはエゴに満ちた悲哀だ。
何度カゴ台車に張り付こうとも、何度でも植木の方へ放れば良かったのだ。
人間の都合で、勝手に命を奪う選択をしたのは、他ならぬ私だ。
私自身の死生観が、私が誰かに殺されても仕方ない、というのがある。
何の脈絡もなく、私が誰かに命を奪われても、それはそういうものだと受け入れられる。
それは、虫にとって何の脈絡もなく命を奪ってきたのだから、命が同等であるならば、奪われるのも致し方ない、という考えだ。
私が身勝手に殺した虫は今回のマイマイガだけではない。
仏教で言えば、虫1匹殺しても、地獄行きだ。
身勝手に生きるならば、諦めと覚悟はいるだろう。
虫に痛覚はない、と聞いたことがある。
そして、何かを考える脳も、その小さな体躯に収まる程度の、小さいものだろう。
だから、握り潰したとしても、何が起こったのか何も分からないままだったと考えるのが自然だ。
それでも、私の暗鬱な気持ちにさせる、あの大きな目が脳裏に過る。
この小さな責務を負わねばならないだろう。
私は確かに、命を1つ、この右手で奪ったのだ。