「身体が液体説」を取っ掛かりに考える。
私が「私」の自意識を追求しているのは、皆さんはご存知だろう。
そして最近の「私」の追求における思考が、人間本来の根源としてあるだろう感覚として、「身体が液体のように感じることとは?」にシフトしていることも周知の事実だろう。
万が一に知らなかったのなら、そういうことなので受け止めて頂きたい。
これから書くことは、「身体は液体説」について思考したことを書き留める。
根源の感覚を前提にした考察なので、突き詰められるかは疑問だ。
もし受け止めるのが面倒なら、さっさと引き返した方が良い。
念のため断っておくが、スピリチュアルな話ではない。
しかし、魂とは何か?について言及しなければならなくなった。
いつも以上に面倒なことをうだうだ考えている。
気付けば、5000文字を越えてしまった。
800文字で読むのに1分だとしても、6分以上はかかる。
読むのが億劫になりそうな分量であることも予め伝えておく。
つまり、そういうことなので、宜しくお願いする次第だ。
__________
目次
__________
1、「身体」は液体なのか?
きっかけは、とあるドキュメンタリー番組の主体の1つの発言だ。
主体は脳梗塞から生還した脳科学者で、術後、床から立ち上がる時に「床と身体の境目が分からなくなった」感覚があったとのことだ。
主体は、感覚として「人間は液体なんだ」と実感したと言っているのが印象に残った。
人間の身体のおよそ70%は水だ。
液体である水がおよそ70%もある人間は、液体と捉えても良いだろう。
液体として散らばる感覚を言葉によって「身体」を規定しているから、この身体は一処に留めている、のかもしれない。
もし、身体が液体として感じる感覚が本来の正しい感覚であったとする。
すると、身体が崩れないでいるように考える、感じるのはどうしてだろうか?
霊について考察した時に、「魂がこの身体を留めている」と考えたことがある。
「体」は元は「殻た」から来ている、と小学校の恩師が言っていたのを思い出す。
殻た、即ち、肉体は魂を入れてある入れ物であり、魂を覆う殻としての考え方だ。
古代の人々が根源の感覚として身体が液体ならば、身体を留める事由として「魂」と「身体」の関係を発明したと考えるのは自然な気がする。
殻たの説を採用すると、身体が入れ物で魂が入る物となる。
そうすると、魂が液体となり、身体が留めるモノとなる。
魂は根源に位置する…のだろうか?
私に霊的才覚はない。
産まれてこの方、柳の下に白装束の女の幽霊など見たことなどない。
故に、魂がそも存在するか否かは判別できない。
根源の正体は何であろうか?
つまり、何が液体として感じるのか、何が液体を留めているのか。
「液体を留める」、これをコップに例えて考えてみた。
2、身体をコップで例えてみる。
コップは、飲み物を入れて飲むための道具だ。
飲み物とは人間が身体に摂り込む液体を指す。
身体はコップとするならば、どうなるだろうか?
まず、コップ自体の存在である。
100円ショップの汎用性のコップと、人間国宝の窯から出た唯一無二のコップとでは付与する価値が違う。
即ち、コップ自体に価値を見出している訳だ。
物づくりで「魂を込めて」と情熱を込めて作った物は、見る人が見れば他と違うのだろう。
「魂を込めて」というのは、表面で言えば見栄えやコストなどであろうが、本質で言えば「人が飲むこと」を突き詰めたことだと考える。
どんな人が、どんな環境で、どのように飲むのか、そうしたことまで考えて作ったコップが「魂を込めて」作られた物だろう。
コップの本質、コップのアレテーは「液体を飲む」ことだと私は考える。
即ち、コップの出来の追求は存在意義の追求と同義だ。
では、身体の追求、身体の存在意義とは何であろうか?
この世にこの身体がある、となれば、「生きること」が本質だろう。
人間のアレテーが「よく生きること」と漫画「ここは今から倫理です。」に書いていた。
人間の「よく生きること」の追求はどういったことだろうか、は後述する。
誰が作った物であるかも重要だ。
出来が悪く、とても商品として扱えない物であっても、生まれて初めての愛娘が両親のために作ったコップはきっと特別だろう。
その物に関係した存在がいる訳だ。
コップを作るものがいて、コップを使う物がいる。
コップは作られなければ存在せず、コップは使われなければ本来の存在意義を失う。
誰が作り、誰が使うかは、たくさんの内の1つのコップの時間経過を表すだろう。
身体で言えば、誰が産み、誰と過ごすのか、つまり生涯の過ごし方になる。
おぎゃあと泣いて生を受けてから、静かに息を引き取るまで、この身体と共にある。
コップとの違いで言えば、コップは半永久的に現存することができることだろうか?
どういう目的で作ったコップであるか、とする視点も一考する必要があるだろう。
コーヒーはコーヒーカップであり、ワインはワイングラスである。
明確な使用目的を持って作られたコップがある。
これは最初に定義した、コップの存在意義「液体を飲むこと」を突き詰めた結果であろう。
ただの「液体」ではなく、そこに「コーヒー」や「ワイン」が入ってくるだろう。
飲むことにも「ざっくばらんに」や「美しい所作で」などが入れば、別のコップが作られるだろう。
人間のアレテーは「よく生きること」とした。
なら、「よく生きること」に「後悔がないように」、「格好良く」、「すべてを抱きしめるように」とすれば、変わるだろう。
つまり、どう突き詰めるか、の問題か。
コップ自体を視点に考えるだけでも、様々な視点がある。
しかし、コップの存在意義である「液体を飲むこと」が前提ではないだろうか?
3、「コップのない世界」と「コップのある世界」の違い。
ここで液体について考える。
そして、どんなコップにどんな液体を入れるかは自由であることに直ぐに気付く。
コーヒーカップに緑茶を入れても良いし、ワイングラスに焼酎を入れても構わない。
汎用のコップも意匠のコップも、コップはコップなのだ。
いや、「入れ物」としてなら、固体でさえ良いのだ。
土を入れて花を植えても、歯ブラシをまとめて入れても、良いのだ。
観賞用、などとなれば、最早「入れ物」としての意味はなくなる。
コップ、であることには違いないが、「液体の飲むこと」からは逸脱している。
コップは良く言えば様々な可能性があり、悪く言えば存在意義を無視されることがある。
この身体は魂が抜けても、土に還れば樹の肥料になり、海に還れば魚の腹を満たす肉となる。
この身体が「よく生きること」に意義があるのは、人生に責任を負える人格が備わっているからだ。
しかし、脳にコードを直接繋いで身体を電子信号で動かして社会を動かすことができるならば、身体に魂を入れる必要がなくなる未来の可能性もあるだろう。
ならば、コップは必要ないのだろうか?
否、コップは「液体を飲む」のに必要だ。
熱いコーヒーを素手で受け止められないし、砂糖まみれのジュースでは手がべとべとになる。
コップがなくても山の湧き水は手で掬って飲むことができるだろう。
しかし、水を十分に飲むにはある程度の時間を水を飲むことに費やすことになる。
また、水を飲んだ後は濡れた手を拭かなければならない。
そして、冷たい水なら指先を冷やす。
夏ならば良いかもしれないが、冬は風邪を引くかもしれない。
コップがない世界は、原始であり、便利ではない。
即ち、「コップがない世界」と「コップがある世界」の視点の違いがある訳だ。
「コップがある世界」はコップがあるのが普通であり、コップ自体の多様化が進んでいる。
それは、様々な視点からコップを突き詰めていった結果、「液体を飲むこと」に拘泥しなくなったのだろう。
「コップがない世界」は液体を飲むのに様々な弊害があっただろう。
それは社会を動かすのに時間のロスに繋がったことだろう。
そして、そのロスを減らすないし、無くすためにコップが発明されたのだろう。
となると、まず、「液体を飲むこと」が先にあり、コップはそれを受け止めるために作られた、と考えるのが筋か?
ならば、この身体は「よく生きること」が先にあり、それを受け止めるためにできたとも考えられるか?
魂単体であることが、何か不便なことがあるのだろうか?
魂は存在しない、とも考えてみた。
しかし、ここでの思考実験においては、液体が存在しないことと同じだ。
液体が存在しないのであれば、コップがある必要がないのだ。
4、不便だから「魂」と「身体」の関係を発明した。
話しを最初の「殻た」説の所まで戻ってみよう。
古代の人たちが何故、「魂」と「身体」の関係を発明したのか?
「身体がない世界」、つまり、身体が液体のように感じることは不便だったのだろう。
最初の脳科学者の弁である「床と身体の境目が分からない」世界は、動くのも一苦労しそうだ。
私の拙い想像だと、まず床に身体が沈み込みそうだし、上へ身体を「起こす」のに液体の身体が崩れそうだ。
「身体がない世界」普段、意識していないから生活ができたかもしれないが、意識してしまうと身動きが取れなかったのかもしれない。
だから、「よく生きる」ために「魂」と「身体」を定義した、と考える。
それは不便に駆られて、必要に迫られて、「身体」の定義し、境目を作ったのだ。
この「身体」という定義の発明が「身体のある世界」となり、それは身体の可能性へと繋がることになる。
では、根源の感覚として、「身体のない世界」は生きられないのか?
否、不便であり制限はあるだろうが、生きられない訳ではない。
手で掬って飲む湧き水のただ純粋に「液体を飲む」ことができるように、純粋に「よく生きる」ことはできる。
しかし、制限のある社会生活はより自由を求める人間には厳しいのだろう。
不便の許容の範囲は人それぞれだが、「身体が液体のように感じる」生活は多くの人が不便に感じるのだろう。
不便だからこそ、「魂」と「身体」の関係は生まれた、と感じる。
「国」という概念が生まれたのも、境目がなければ不便だからだろう。
しかし、境目がなくても純粋に存在することはできる。
渡り鳥が国の境目を気にして迂回することなどなく、気にしているのは人間ばかりだ。
もし、不便さを感じなければ、「身体が液体」のように感じたとしても問題なかったはずだ。
件の脳科学者もそのままの感覚で生活できるのであれば、そのままにしていただろう。
しかし、ドキュメンタリーでは、自身の身体を言葉で定義したことを言っていた記憶がある。
身体を液体説を唱えている私だが、私自身は身体を液体のように感じたことはない。
しかし、ここまでの考察で私の中で一つ確からしいことがある。
あえて、言い切る。
身体の境目の発明は、不便さから生まれた。
不便に感じなければ、根源の感覚のままでも問題なかった。
根源の感覚は、仮定に仮定を重ねてもその正体は分からなかった。
しかし、不便に感じるから「魂」があるとし、「身体」の境目を定義したであろうことは可能性として考えられる。
不便とは、もっと良くしたいという「欲」から生まれる。
私は人間の進化、深化に「欲」の存在があると断ずる立場だ。
キーキーとただの鳴き声でのやり取りを、「言葉」を発明してより微細なコミュニケーションにしたのは、より高度な「欲」であり、「不便」と感じる心だ。
5、まとめ。
欲について考察すれば、根源の感覚についてもう少し解明できるだろう。
しかし、そも「根源の感覚がある」ことを前提に考えることは正しいのかどうかも疑わなければならない。
ただ、今回の考察で「「私」の境目」の考察の一助になりそうなのが、私の中で一番の収穫だ。
今回の考察では…
1、「コップのない世界」では、不便さからコップが発明された。
2、「コップのある世界」では、様々な追求があり、それはコップの存在意義から逸脱することもある。
3、「身体」を定義することが、「よく生きる」ために必要だった可能性がある。
4、身体を液体のように感じることは実生活を送る上で不便であり、境目は必要だった。
話しが散らばったが、「身体が液体説」についてはここで一区切りとする。
相当な日数をかけて書いたからか、かなりの長文になってしまった。
ここまで面倒な勝手な文章を読んで頂き、ありがとうございます。
「私」の境目を求めて彷徨い歩く秋の夜長かな。