ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

身丈にあった不便を許容すれば社会全体が良くなるはずです。 

「弱者」を取っ掛かりに考えていた。

 

「身体が液体説」を考察した時に、不便について言及した。

ふと、「不便」について見解した記憶がふんわりと思い出した。

今後の「私」の境目の追求に必要かもしれない、と過去の各SNSでの投稿を漁った。

 

すると、2011年4月に該当するコメントを見付けた。

私が不便を強く意識した年、2011年3月11日、東日本大震災後のものだ。

そこに脱原発の主張をしていた人に、その当時の私が意見を述べたものだ。

 

最初、当時の東京の電車の混雑について少し言及した。

それに対して反論があったので、「不便」に対する私見を展開した。

双方向を意識して書いてあるが、基本、私の独白に近いコメントだ。

 

「不便」と言うよりかは、「弱者」についての見解だろう。

故に「不便」を取っ掛かりに、ではなく、「弱者」を取っ掛かりにしている。

「弱者」とは何かという視点は、当時の混沌とした状況を垣間見えるキーワードになっているように感じる。

 

ここに当時のコメントを載せる。

相手に問いかける部分は伏せるなどある程度の編集はするが、ほぼそのまま載せる。

そのまま載せているため区切りがなく読み辛いかもしれないが、編集し過ぎても良くないと感じたので、できる限り手を加えていない。

 

長々と書いているが、一言で言えば、タイトルの言葉がすべてだ。

どうしてそういう考えになるのかは、本文を読んで頂きたい。

長いので、太字にしている部分だけ流し読んで貰っても構わない。

 

妙な気恥ずかしさがあるが、今でも同じ考えだ。

 


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下記がそのコメント(本文)である。

 

 

(前略)

 

えー全部のコメントを読んでいませんが、原発についての私見をちょっと書きます。 

経済についてはある程度考慮すべきことだと思います。

しかし、私は原発を止めて直ちに経済が滞るとは思いません。 

例えば東京の電車ですが、東電が電力が足りないと言ってたのにJRが自主的に電車の本数を減らしただけで問題が解決しました。 

この例で言っても少し不便になるけど移動は出来ます。

利用する人が不便を容認が出来た訳です。 

どの程度不便を容認するかが消費者の論点だと思いますが、少なくとも全く使えなくなることはないでしょう。 

 

企業としたらどの程度まで会社が持つかが論点でしょう。 

原発が止まったら全ての会社が倒産してしまうのかということですね。 

やっぱりそれはないでしょう。

生産するのに電気があればあるだけ良いのでしょうが、足りなければ足りないで工夫すれば良いだけです。 

日本の外で作っている工場もありますし、国もある程度の保証はしているはずです。 

 

また、技術的な面で見ても進歩があり、LEDの20年取り替えなくていいは最早反則に近いものがあります。 

これから先も限りある資源をより活用する為に技術開発は進んで今よりも少ない電力で済むことになると私は思います。 

 

今回の地震もそうですが、福島のは現実であり真実だとも思います。 

原発の安全が保障されなければ日本が無くなるということです。 

経済の衰退より難民になる方が私は嫌です。 

放射能を完全に確実に完璧に封じることが出来ないならば、止めるべきです。

 

(上記の発言に対して、「東京の電車のすし詰め状態での混雑による弱者の視点がない」ことを指摘されて)

 

まず前言で発した私の発言に対して。 

私が言っていることは極論であることは自覚しています。

物事がそんな綺麗に白黒で分けられるとは思っていません。 

じゃあどっちも付かずだと話があやふやになって何も解決しないことになります。 

先の発言は私の立場を明確にしたことによって微力ながら解決へとなればと思った上での書き込みです。 

 

さて、これから書き込むことも極論です。 

先の発言と同じく明確化だと思って下さい。 

 

弱者とは何か?

そもそもの弱者の言葉はどう言う意味でしょう? 

言い換えれば「自分よりも弱い人」です。

当たり前のことですがここら辺をはっきりさせておきます。 

 

電車についてを述べる前に私の立ち位置を書きます。 

私は長野に住んでいます。

東京のような混雑に見舞われる方が稀で大体ゆったりと席に座れます。 

ご存知の通り説得力ゼロです。

東京の皆さんは私の意見を読んだら殺意を抱くことでしょう。 

でも福島の人達に言わせたら移動すること自体が困難かと思われます。

電車云々の話は呆れてしまうかもしれません。 

 

電車の混雑は想像するしかありません。 

子どもや妊婦、お年寄りは弱者とありました。

席に座れずに押し合いへし合いするのは確かに危険です。 

子どもが学校に通学するのに電車の使うとしたら親御さんは心配でしょう。 

妊婦さんは流産の危険があって恐ろしいでしょうね。 

お年寄りは怪我をしたら寝たきりになるから文字通り覚悟をしなくちゃいけないんでしょう。 

身近な人で言うと私の古くからの友人のAさん(仮名)がいます。 

彼女は背が小さく混雑する電車に乗ると貧血を起こすと言ってました。 

彼女がその電車に乗ったらと思うと不安に思います。 

体調不良を起こして下手したら死んでしまうかもしれません。 

 

では彼女の立場だったらどうでしょう? 

彼女は背は小さいですが、立派な大人です。 

つまり彼女より弱い人がいるんです。 

私から言うと私より弱い人は彼女ですが、彼女より弱い人はいます。

 

もう一度弱者とは何かを考えてみます。 

そうするとそれはやはり比べることにあります。 

電車に乗ることについて長野より弱いのは東京です。

でもそれよりも福島の方が弱いのです。 

子どもや妊婦やお年寄りが弱いのは立派な大人がいてその大人たちより彼らが弱いから。 

Aさんは私より弱いですが、Aさんより弱い人は当然います。 

 

ここで何故すし詰め状態になるのかを考えてみます。 

弱者と言う言葉で言えば電車に乗る全ての人が弱き人だったんです。 

では誰と比べたのか?

それは全ての人が自分より弱い人がいない、私が一番この中で弱い人と思っているということです。 

 

ここで言っていることって変ですよね? 

全ての人が私が一番なんてことある訳がない。

自分より弱い人はいるんです。 

では何故その自分より弱い人がいるのにすし詰めになるのか? 

それは余裕がないんです。

自分のことで手一杯なのに他の人に手を差し伸べられない。 

 

電車に関わらずこの風潮はあると思います。 

全ての事情は知ることは出来ないからそっぽを向く、自分のことで手一杯。 

でも少し余裕を持てば真に弱い人は救われます。

ほんの少しの余裕でです。 

 

私の言う不便はここにあります。 

この不便をどこまで容認が出来るか、それは一人一人の立場や事情がありますが、それぞれがそれぞれの身丈にあった不便を許容すれば社会全体が良くなるはずです。 

 

その中で真に弱い人は誰か? 

 

(原子力発電を)撤廃すること自体が真に弱い人を追い込むんだと言う意見も正しいとも思います。 

実はここでのコメントで投稿主さんは医療現場での電力は必要と書いてまし、ずっと命の尊さを訴えています。 

 

私はこの問題の大前提に「真に弱き人が誰か?」があると思います。 

この問題は人の命の重さが問われています。 

原発推進と原発撤廃の争いは電力不足で死ぬか放射能で死ぬかの究極の選択をしているようなもんです。 

 

(原子力発電を止めた場合の)25%の削減による不利益は私にはどうすることも出来ません。 

でも節電をしたり、移動は自転車にしたりと電力不足による不便は結構許容が出来ます。 

放射能を私は防ぐことが出来ません。 

それでも福島産のを食べることに抵抗はありませんし、全てに被害があるとは思いません。 

 

真に弱き人は決められないかもしれません。 

でも一つの提案として、一人一人がそれぞれの身丈にあった不便の許容を考えたらどうでしょうか? 

どっちで死ぬかよりソフトですし、私は根幹にある真に弱き人のことを救うことに繋がると思うからです。 

 

最後に弱者について。

私はこの言葉があんまり好きくないんです。 

弱き人はいます。

でもこちらが勝手に弱者と言うのはレッテル貼りのようで嫌です。 

電力不足と放射能漏れと言う絶望の中でも立ち上がっている福島の人達がいます。 

私は人間の強さを信じたいのです。 

 

長々と同じようなことを書いたり、回答になってんだかどうか怪しいですがこんな風に思いましたっと。

 

 

以上だ。

これを以て、「不便」の考察とする。