最初に。
この記事は私の心情の吐露である。
私自身が決め付けている、私の本質を考えている。
今日の朝までは気分は上々で、上向きであった。
しかし、今は後ろ向きに全力だ。
故に暗鬱とした言葉ばかりなので、そうした暗鬱な言葉に捕らわれ易い人は回れ右をして欲しい。
きっとこの記事は、私が書きたいことなのだろう。
今この瞬間(11日20時頃)に書かなくたって、家に帰り着いてからでも書く時間はあり、いつものように数行書いていつも通りにそのまま投稿しても良いはずなのに、そうはしなかった。
私にとってこの心情の吐露は、私の行く末を考えるのに必要な行程だ。
では、読まれる方は続きをどうぞご随意に。
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トンネルを抜ける度に天気が変わる。
濃い霧が前方に広がっていたのに、トンネルを出た先は真っ青な空であった。
その次のトンネルを潜れば、今度はしとしとと雨が降って、タヌキかキツネの化かされている気分になる。
朝から高速道路に乗って、向かうは富山県高岡市だ。
目的地は古本屋「なるや」さん、目的はそこで行われるイベント「パラレルワールド Vol.0~前例を捨てよ、僕らは出逢おう~」の参加だ。
オープンマイクがあることも把握していたので、その準備もしていた。
パラレルワールド Vol.0~前例を捨てよ、僕らは出逢おう~
(Facebook上のイベントページより)
目的地にはなんやかんやで着いた。
「なんやかんや」の部分は話せば長くなる。
あえて簡単に言えば、道に迷って遅刻した。
それでも一本メールを事前に送っていたのが幸いしたのか、まだ始まっていなかった。
申し訳ない気持ちと安堵する気持ちが半々に私の中で同居した。
前の席が空いていたから、図々しく前の席に座った。
最初にオープンマイクをして、なんやかんやで終わった。
「なんやかんや」は話せば長くなる。
簡単に言えば、皆さん短いながらも密度の濃い内容で、私のが霞んだ気がする。
私のオープンマイクは短く、三題話をしたが、場違いではないか?と感じた。
それでも、少数ではあるが笑いが起きたので、薄っぺらい自分を誤摩化すことには成功したのだろう。
そして、最後に主催者さんが自作の文章の朗読をしたのだが、このイベントの正体をこの朗読から発せられるもので感じ取った、と振り返る。
主催者さんの言いたくないけど言いたいことを書いた文章が書かれた紙は、小刻みに震えていた。
ああ、本当のことを話しているんだな、と私は他人事で考えた。
いや、オープンマイクで発表した人は全員、熱のある本当のことを話していたのかもしれない、と考え至る。
1部のオープンマイクが終わり、休憩後、2部の朗読詩人の成宮アイコさんとピアノ・ボーカルの青山祐己さんのコラボライブだ。
イベントのメインに据えられていたコラボライブで、私がイベント参加で楽しみにしていた一つだ。
ネガティブ方向にポジティブな私は、ネガティブな人間に会いたい欲求があった。
およそ3時間のコラボライブは、私の心を静かに乱した。
ある1編の詩では、自然と涙が溢れた。
「忘れたくない」、「あなたはまだ居る」が私の中の、私の感じている、私の悲しみに触れたからだ。
ただ、それだけと言えば、それだけだ。
残りの大半の詩については、私の想像の域であった。
寂しいことを共感したい、とは私は考えないからだ。
1人、心に波立ったさざ波の数を数えている間に、2部が終わった。
3部は、トークイベントとなって、それも参加した。
深く考えもせずに。
軽快なトークであるが、内容はかなりヘビーであった。
恐らく、赤裸々に他人に話すことではないことを話していた。
その最中に、「しんどい時に楽になる方法」について各人に聞かせて欲しい、とマイクが端の人に手渡された。
前の席だから、早い段階でマイクが回ってきた。
心臓がどくどくと脈打つのが分かった。
咄嗟に、過去の一幕をさらりと告白して、難を逃れた。
その後、それぞれがそれぞれの「楽になる方法」の話になったのだが、その何れもが、深く抉られた生々しい傷痕であった。
「深く抉られた生々しい傷痕」という表現で合っているのか、分からない。
ただ、簡単に開かすような話ではないだろう。
特にある娘さんの吐露を聞いて、このイベントの参加者との溝を感じた。
その娘さんは、最初は笑っていたのに、話し始めて、顔を歪めて泣き出した。
それがあまりに尊くて、私の心は尚一層乱された。
最後は三々五々でそれぞれが気になる人と会話をしていた。
私は、誰もが気になっていた。
しかし、その誰もに声をかけられずにいた。
心優しい人が数人話しかけてくれた。
お陰で体裁は保てた。
ただ、私は途方に暮れていた。
あの娘さんに話しかけたい。
だが私の言葉は、きっと彼女を傷付ける。
彼女を傷付けたくない私は、ここにいる誰も傷付けたくない私は、話しかけられなかった。
独り、体面は保ったと思い込みながら、バイパス道路を走らせた。
そして、幾何度目か知らないが、私の正体と出くわす。
私は、誰とも噛み合わないな、と。
ネガティブであることを自称し、実際にネガティブに考え、ネガティブに全力を尽くした。
しかしこのイベントで、私はネガティブとは違うのだ、と知った。
いや、ネガティブにおいてのベクトルが違うがより正確だろう。
「生きづらい」ことを時々感じているし、「死にたい」などしょっちゅう考える。
しかし、寂しさを共感したい訳ではないし、死ぬことに対しての感情も淡白だ。
彼女彼らの鋭い感性と、鈍った私では至る結論が違い過ぎる。
「何処にも居場所がない」とあの朗読詩人の成宮さんは言っていた。
「何処にも居場所がない」ことが辛いとも言っていた。
そして、多分、その場にいた誰かにとっては、共感できることだろう。
しかし、私は共感できない。
居場所がないことを辛いと感じたことはない。
何故なら、「居場所がない」ということが私の「普通」だからだ。
最初から私には「居場所」などない。
ロボットが感情がないことを嘆かないように、そも「居場所がない」私は辛いと感じることさえない。
そして、「居場所がない」ことを私は諦念し、受け入れてしまっている。
私は考える。
私はネガティブであるが、生きづらい人々とは共感し、分かち合えない。
かと言って、人生に謳歌する人々とも、挑戦する人々とも、相容れない。
私は考える。
私は誰とも噛み合わない。
そして、そのことが「辛い」とは感じない。
思わず、無料のパーキングエリアに自動車を止めた。
自動車から下りて、あの信号まで歩こう、と歩き始めた。
私は考える。
私は「普通」になりたい。
世の中の真っ当な「普通」になりたい。
そして、「普通」に生きたい。
しかし、「普通」に生きるには、人と関わらなければならない。
誰とも噛み合わないのに、誰かと関わらなければならない。
「普通」に生きることの何と難しいことか。
それでも、私は心の何処かで誰かと噛み合うことがあるかもしれない、と考えていたのかもしれない。
「普通」に生きようと考えていたその根底に、誰かと噛み合う未来を想定していたのかもしれない。
しかし、それは、誰かの悪夢だろう。
分かっていた、私が「普通」から既に逸脱していることは分かっていた。
記憶の限りで言えば、中学の頃には分かっていた。
今回のイベントで、幾何度目かの再確認をしただけだ。
しかし、今回は客観して所謂「ネガティブ」な人々の集まりだった。
今までは「ポジティブ」の人々の集まりの中での噛み合ないことの再確認であった。
噛み合わなくても、相手はポジティブだからな、と逃げることができた。
しかし、私は直面してしまった。
私は「ポジティブ」な人々だけでなく、「ネガティブ」な人々とも噛み合わない。
それが意味することは、即ち、私は「普通」にはなれない。
私は「普通」になれない、と知った。
私は「普通」になれない、と知ったのに、辛くない。
私は「普通」になれない、と知ったのに、辛くない、という事実が辛い。
この感情は私の少ない語彙では説明できない。
良いイベントだった、本当に良いイベントだった。
私が本当に独りだと知っただけだ。
これからのことは後で考える。
明日はいつもと同じく、いつも通りの投稿をするだろう。
奥歯を噛み締めていることに気付いて、溜め息が出た。
最後に。
私が「普通」になれない絶望に感謝を。
私が救われるなど烏滸がましい、これで良いのだ。
幾何度目かの事実に目一杯顔を背ける。