ネガティブ方向にポジティブ!

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長野市鶴賀権堂町の古き良き散策(亀の湯編)。

3500文字を越えたので、「続きを読む」ツールを利用する。

本編は下記のボタンから。

長野市の魅力を再発見した気分を書いている。

ご興味のある方は、どうぞ。

 

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目次

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1、朝の行動。

夜勤明けの朝8時、居間で私は雑煮をもぐもぐしていた。

死んだ魚の目をした私の胃袋に雑煮の餅がすとんと落ちた。

じんわりと広がる熱に身体が温まり、緩やかに生気が戻していた。

 

今日は休みだ、のんびりできるぞ、と炬燵の中の足をぐーっと伸ばした。

ただ雑煮を食べるマシーンとしてほわほわしていた。

そこへ垂れ流していたテレビから「ぼけますから、よろしくお願いします。」が長野市で上映するという声が私の小耳にするりと入ってきた。

 

はて、何処かで聞いたことがあるタイトルだな、と餅を二口飲み込んだ辺りで思い出した。

Facebookで「ぼけますから、よろしくお願いします。」のイベント情報が載っていたのを見かけていたな、とお茶を啜った。

確か、映画館の位置情報も載っていたはず、といそいそと部屋に戻りながら考えた。


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2、昼の行動。

すわ、太陽が昇り切った10時40分、長野市鶴賀権堂町に私はいた。

「ぼけますから、よろしくお願いします。」は「長野松竹相生座・長野ロキシー」という日本でも最古の部類に入る映画館で上映される、と事前に知っていた。

しかし、上映時間については思い付きのために予定にない動きであることと、初めて行く映画館なので正確に着く時間が読めなかったため、コインパーキングに停めた時点で

上映時間を調べる算段を立てていた。

 

Googleさんによれば、「ぼけますから、よろしくお願いします。」の1月12日の予定は、10時30分と16時35分の2本である、と表示した。

10時30分のも最初のマナー注意動画や映画告知動画を考えれば間に合う可能性は十分にあるが、30分と同時に本編に入る仕様だった場合は冒頭が見れない。

だったら、余裕を見て16時頃に映画館でチケットを買った方が良い、とぐだぐだの予定を立てた。

 

そこで映画館の場所の確認がてら、たらたらと長野市を歩いた。

30分か40分くらい、宛てもなく寒空の下を散策した。

それから一度、コインパーキングに止めてある自動車に戻って仮眠を取った。

 

よく考えなくても、夜勤明けから移動しているのだから、もっと早くに睡眠を取るべきだったかもしれない。

とは言え、軽い運動をしたためか、寝付きはとても良かった。

昼過ぎの1時30分、車内が冷えてきた頃合いで目が覚めた。


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3、亀の湯へ。

さて、まだ時間がある、としばし考え、先に風呂に入ることにした。

松本に帰ってからの予定を前倒しすることを決めたので、再びスマートフォンで検索した。

すると、歩いて5分もしない場所に「亀の湯」なる銭湯があることが分かった。

 

早速、その銭湯へ向かい、さくっと着いた。

ペンションのような外観なのだが、出入り口で「男湯」と「女湯」と分かれていた。

出入り口から分かれているタイプは初めてで、ちょっとワクワクした。

 

提示されている大人料金は400円とリーズナブルだ。

この値段は備え付けのシャンプー&リンスやボディーソープがないのだろうな、と伺わせた。

市外の人間も400円で利用できるのはかなり嬉しい。


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私の性別は男なので「男湯」に入った。

入って少し驚いた。

靴脱ぎ場があって目の前がもう更衣室なのだ。

 

漫画などでよく見る二つの出入り口の真ん中に顔だけひょっこり出ているおばあさんがいた。

番頭さんだろう、私は500円硬貨を置くと、「ありがとうございます」と言ってお釣りが返ってきた。

いやはや、このやりとりだけで妙なノスタルジーを感じてしまった。 

 

靴入れとロッカーの鍵は平たい鉄で、錠前の横でひょこっと出ているロックを押し込んでから鍵を引き抜く仕様だ。

止まった扇風機、西洋のアンティークガラスのランプ、梁の上のざっくばらんな飾り板。

見事なまでに古き良き銭湯、といった風情で感動した。

 

左側の小さなロッカーや棚の上に様々なカゴと洗面用具が置かれていた。

恐らく、市内の人の私物が普段から利用しているから常に置いているのだろう。

こうした所にも地域に密着した銭湯らしさが滲み出ていた。

 

服を脱いで裸になり、浴室に入るとこれまた「THE銭湯」があった。

壁には富士山があり、一面タイル張りの浴室だ。

薄緑色のタイルは年季が入って、独特の風味を出していた。

 

洗面台には水道管のジョイントに直接シャワーヘッドが着けられていた。

そして、押しボタン式の水とお湯と蛇口、鏡が四方を囲むように設置されていた。

面白いのが、シャワーヘッドに水とお湯のボタンが各洗面台毎で違うのだ。

 

ピンクのお湯のボタンのお隣は、プラスチック製であったり、シャワーヘッドの規格の大きさもバラバラで個性があった。

この洗面台の良い所は、押しボタンを押し続ければ出続け、手を離せば止まる仕様である点だ。

こちらである程度量を調整できるので、必要な分だけじゃぶじゃぶ使えるのだ。

 

また、シャワーは金具を開けるとずっと出っ放しになるようになっていた。

私は、シャワーは出続けた方が嬉しい人間なので、手放しで喜んだ。

この洗面台は私にとって完璧であった。

 

洗髪、洗体を済ませて、いざ浴槽に入った。

浴槽は2畳ほどの大きさの通常の浴槽と1畳ほどの泡風呂のシンプルなものであった。

縁は丸く、絶妙な座り心地で最高だ。

 

浴槽の深さは結構あり、私のへそ下辺りであった。

短足胴長である私の推測で、80cmの深さはあるだろう。

しかし、一段階段があり、そこに座ると私の胸付近まで浸かれて丁度良い。

 

ちょっと地に着かない感じがするが、一段階段向きに足を伸ばせばそれも解決だ。

混雑すればあまり場所を取れないだろうが、人も少なく大いに寛げた。

風呂に入った後だと、シャワーが温いを越して冷たく感じるので、浴槽から出た後の洗面台の利用は気を付けた方が良いかもしれない。

 

浴室内には地下に下りる階段があり、見た所、サウナのようであった。

「ようであった」と書いたのは、プールサイドにある誰も使っていない水浴び場のような水気の無さと静寂さが際立っていたから、サウナなのか自信が持てないためだ。

使い方が今一つ分からなかったし、お湯に浸かれるだけで満足なので利用しなかった。

 

さて、十分に楽しんだ後はさらりと着替えた。

ロッカーの上にはキャップ式のシャンプーとリンスがガラスケースの中に鎮座していた。

見た所ポンプ式はないようで、その点も私は評価している。

 

設置型のシャンプーとリンスであれば、ポンプ式の方が便利だ。

しかし、通いで持ち込みするのであれば、ポンプ式は不便だ。

ポンプを締めるのに1回押さなければならず、その1回分の溶液が無駄になるからだ。

 

中身を予め空にするのも手間だし、1回押した状態から締めようにも片手は塞がっていてやりづらいし、兎に角、持ち込みではポンプ式は使い勝手が悪い。

その点、キャップ式なら無駄にする心配も無いし、手軽に持ち運べる。

市外からの利用者も多いのだろう、キャップ式だけにして選択を絞っているのは良い。

 

さて、感心しながら、昔ながらの緑の体重計で量り、さらりと着替えた。

そして、銭湯に来たら、やはりコーヒー牛乳だろう、と1本購入した。

うぐうぐと飲んで一息着いて、ふと、何かの機械が目に入った。

 

下の説明書きが書かれた紙を読んでみた。

「オッケー、グーグルと話しかけてみて下さい」とあった。

まさかの「Google Home」が置いてあったのだ。

 

出し抜けに置かれている感じが堪らない。

使ってみようか、いや、目の前の番頭のおばあちゃんが気になった。

ちょっと聞きたいこともないし、今日は辞めておこう、とヘタレた。

 

靴を履いて外へ出た。

外気は冷たかったが、火照った身体には丁度良かった。

魂の洗濯、とはこういったことをいうのだろう、と体感した。


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4、最高であった。

出だしは映画の感想かな、と匂わせて、見付けた銭湯について語ってしまった。

いや、それだけバッチシ私好みの銭湯だったのだ。

ミニマリストの方なら喜ぶのではなかろうか、というシンプルさだ。

 

是非、長野市鶴賀権堂町に訪れた時には行って欲しい。

善光寺に行く用事があるなら横道に逸れてみてもいいかもしれない。

「古き良き時代」の雰囲気を満喫したいならお勧めだ。

 

この銭湯の後に映画を観たのだが、映画は映画で素晴らしかった。

映画の感想は後ほど、書けたら書く。

つまり、前後編と分かれる訳だ。

 

この記事は即ち。

 

長野市鶴賀権堂町の古き良き散策(亀の湯編)。

 

となるのだろう。

いや、しかし、本当に最高であった。

長野市に予定があるときは、なるべく利用してみよう、と今から目論むのであった。