最近、私は飽き性ではないか、と感じる。
今まで「私は飽き性だ」、と考えたことはなかった。
しかし、じっと自分の内面を見つめていくにつれ、飽きがあるのかもしれない、と感じたのだ。
竜頭蛇尾な私は、最初は勢い良く、次第に衰え、尻窄みになる。
どうしてなのか、深く考えたことはなかった。
原因は様々あるだろうが、私はそれを集中力がない意気地の無さと切って捨てていた。
しかし、最近は自分の好きなことを好きなだけやるようになって、意気地の無さだけでは説明できないな、と考えた。
一体、何があるだろうか、と首をもたげていたら、「飽き性」の文字が目に飛び込んだ。
何の媒体かは忘れた、ただ、「飽き性」の文字が私の頬を引っぱたいた。
考えたこともなかったが、私は飽き性なのだろう。
飽きるという感覚を私はようやく呆けた頭がキャッチしたのだろう。
確信はないが、多分に間違いではないだろう。
飽き性なら飽き性なりに工夫するしかあるまい。
どう工夫するか、考えなければ。
私が飽きる前に閃きたい。
継続し続けたこのブログは飽きは来るのか?
すでに飽きは通り過ぎたのか?
現在の私の感情は、勢いも尻窄みもせぬどっち付かずかな。
飽きた、と言えるくらい、のめり込みたい3月29日の春の夜から。