春を取っ掛かりに考えた。
春と言えば桜、桜と言えば春だ。
春の形容詞の代表格は、今年も清廉と咲いた。
目の端々に桃色の花びらがすっと映る。
桜が咲く前にはフキノトウは芽吹くし、梅も咲く。
我が家の庭には青いスズランやムスカリが咲いている。
それでも、春と言えば桜の花なのは揺るぎない。
一年で一度きり、どの季節も一度きりだ。
百年生きたとしても、百回しかないのだ。
流石に飽きるだろうか、それとも物足りないだろうか、長生きしなければ分からない。
その上、生きている人間は一年毎に感じることが違う。
だから、今私が清廉と評した春は、今この瞬間でしか感じ得ない春なのだ。
本当は、人生で一度きりの春を享受する。
それでも、思い出されるのは昔の春の桜の出来事だ。
桜を見る度に、私はきっと同じことを思い出す。
違う桜であっても、私は思い出す。
それは、よく晴れた日の、春の出来事だ。
(ゴルフ練習場の駐車場の桜の写真)
雲一つない、とまでは言えないが、確かに青い空であった。
青い空にも色々とあるだろうが、白っぽさがある青であった。
深みのある青と言うより、柔らかな青い空であった。
私の住んでいる場所は自動車の行き交いが多く、エンジン音は微かに轟いた。
そのエンジン音と共に、風が吹き抜けていった。
そう、服がはためく程度には風が強く吹いていた。
その日、私と祖母は家にいた。
その頃の祖母は、めっきり外に出かけることが少なくなっていた。
野沢菜漬けの石で足を挫いてから、段々と家に籠もることが増えていたのだ。
私は外に出たくない人を無理やり連れ出すのは違う、と考えていた。
上手に外に連れ出す文句が出てこなかった、というのもあった。
桜は外に出る口実にしては最適であった。
祖母を誘ってみると渋々ながら了承した。
生来のプライドの高さからの外面が、外に出たがらない理由であった。
つまり、あまり他人と接触することがなければ、祖母も断る理由はないのだ。
私の記憶の限りでは、家族で花見をしたことはなかった。
独りで桜の木の下でぼんやりの眺めることはあったが、家族と桜を見に出たことはなかった。
内心、これが家族との花見だな、と二人っきりの花見にウキウキしていた。
花見をしたのは、近くの打ちっ放しのゴルフ練習場の正門の駐車場の桜だ。
春の代表格が桜であるが、桜の代表格はソメイヨシノだろう。
正しく、春の王者が君臨する、その場所まで歩いた。
玄関から出て、えっちらおっちらと歩いた。
とは言え、全く遠くはない。
500mもないだろう、5分もあれば辿り着く近さだ。
風が強かったから、勢い良く桜が散っていた。
祖母は綺麗だね、と言っていたかもしれない。
私は綺麗だね、と応じていたかもしれない。
それほど長く、ゴルフ練習場の駐車場には居なかった。
元々、花見をするような場所ではない。
それに風が思いの外に強く、身体が冷えてしまったのも早々に戻る事由になった。
二人してそそくさと家に戻った。
えっちらおっちらと歩く祖母と歩幅を合わせた空は青くて、風は強くて、桜は綺麗だった。
花見らしい花見はできなかった、ある春の日の出来事だ。
あれから何れ程の月日が流れただろうか。
とても遠い、永い時間が過ぎたようにも感じる。
とても近い、短い時間のようにも感じる。
祖母はもう居ない。
春の手前の2月に他界した。
祖母と桜を見たのは、あの時が最後か。
二人でえっちらおっちらと歩いたゴルフ練習場はない。
見事に真っ新な平坦な土地になってしまった。
立派であったあの桜も軒並み切られてしまった。
私のスマートフォンにゴルフ練習場の駐車場の桜の動画がある。
撮った理由は大した事ではない。
桜が咲いたから撮っておこうくらいの、理由にもならない理由だ。
今、祖母と見た桜は、私のスマートフォンの中にしかない。
全部で3枚の画像と1分足らずの動画しか、あの桜はない。
いや、私の頭のフォルダにも記憶している。
桜、桜が今年も咲いた。
何故に桜は咲くのだろうか?
夏ではなく、秋でもなく、冬でもなく、何故に春に咲くのであろうか?
一年に一度の、人生で一度きりの春だ。
あの祖母と見上げた一度きりの花見は、私の記憶と中にだけ。
こうして文章に仕上げて、仕立てて、春を淀ます。
春と言えば桜、桜と言えば春だ。
春の形容詞の代表格は、今年も清廉と咲いた。
目の端々に映る桜は、清廉に咲いている。
思い出すのは、あの時の出来事だ。
春になる度に思い出すだろう。
桜が咲く度に思い出すだろう。
春の断片で塞き止める私の記憶は、散る桜の如く流れ去る。
流れ去れば、淀んだ春も流れゆく。
詰まるところ、この記事は、私の記憶の追随だ。
よく晴れたとある春の淀みの話だ。