今週のお題「雨の日の過ごし方」
今週のお題は「わたしの好きな歌」で、「雨の日の過ごし方」ではない。
「雨の日の過ごし方」のお題が出たのは、2018年6月9日だ。
今週どころか、今年でさえない。
1年以上漬けて香ばしくなった記事を書く。
今更ではあるが、私は気にしない。
私にとっては、今週のお題は「雨の日の過ごし方」で良い。
さて、「雨の日の過ごし方」というお題だ。
晴れでもなく、曇りでもなく、雨という天候である。
雨ならではの楽しみ方を提示すれば良いのだろうか?
何せ、私の過ごし方は、天候に左右され難い。
日常の、生活の、或いは生き方の一部であって、それが全体ではない。
晴れでも曇りでも雨でも、やりたいことをすれば良いだけなのだ。
雨ならではの楽しみ方、果たして、何があるだろうか?
雲から滴り落ちてくる雨粒に想いを寄せる。
ぽつぽつと私の背後に降り始める、想像をする。
まずは、やはり、読書だろうか?
トタン屋根に叩く軽快なリズム音を調べに、積んでいた本を1冊、捲る。
積んでいた、と言うのがポイントだ。
外に出ることを、雨を事由に出なくていい。
自分に都合の良く、外に出かけないから、と机の脇の本を手に取る。
元々興味があって自らの身銭から出して買った物だ、最初の数ページはゆっくりと読める。
本を読み始めると、時間はゆっくりと確実に流れる。
次第に雨の音は私の背景へと消えていき、本の言葉が溢れてくる。
積み本は山ほどあるので、雨を口実に読みたいものだ。
それから、ドライブするのも楽しい。
私は晴れた天気を走るのも好きだが、雨の中を走るのも好きだ。
ぼつぼつと骨太な音が車内に響き、フロントガラスで弾けて砕ける雨粒がたまらなく愛おしい。
雨の演出力は素晴らしく、いつもの風景を、幻想郷へと変えてしまう。
アスファルトの水溜まりに、透明な濁りが沈んでいく。
街灯の明かりがもう来ない人を待ち続けているような、そんな錯覚を覚える。
雨の山道は特に良い。
鬱蒼とした木々に雨の陰鬱さが掛け合わさって、最高だ。
私の気分は天元を穿つ勢いとなる。
雨の高速道路も乙である。
トラックのライトの照らすのは、暗闇か、道筋か。
妄想が捗って、楽しい。
雨の中を歩くのもたまには良い。
傘を叩き、私のつむじから半径70cmの領域の中に入りたい雨粒が大勢いる。
道を歩くと、半径70cmの領域から出てしまう足に幾万の雨粒が吸い込まれていく。
身体が冷えるので、長時間は難しい。
しかし、最初から濡れる腹積もりでいれば、雨は良い。
土の匂いが分かる、山の陰が濃くなる、静かにせっせと歩くのは楽しい。
歩くならば、 30分は歩きたい。
家に帰る頃には、靴下はぐっしょりとしている。
玄関の壁に靴を立て掛けて、晴れたときまで乾かす。
陰鬱で鬱陶しい雨は、その実、私に寄り添ってくれる。
傘やトタン屋根や自動車のフロントガラスに阻まれながら、私に寄り添おうとしてくれる。
べっとりとくっつかれれば嫌になるだろうが、晴れ続きだと寂しくなる、それが私にとっての雨だ。
私は雨を愛している。
私の日常を退屈から退けてくれる雨を敬愛している。
時に恐ろしく、時に切ない、そんな雨を私は愛している。
NO RAIN,NO LIFE.
「雨の日の過ごし方」なのに、雨讃美になってしまった。
それでも良いか、元々今週のお題でさえないのだから。
私の背後に雨が降る、私の一部の雨が降る。
とっくの昔の下書きを書き終えて、今、投稿する。