安曇野市が発行している「広報あずみの」の8月号を手に取る。
特集が「SOSの出し方、見つけ方〜自殺に追い込まれることのない地域を目指して〜」とあった。
なにやら重たいテーマである。
1ページ目、最初の文章は下記の通りだ。
16人が命を絶つ
人の「命」は何ものにも代えがたいものです。
しかし、自殺者は後を絶ちません。
我が国の自殺死亡率(人口10万人あたりの自殺による死亡者数)は他の主要国と比べると高く、年間2万人以上の命が自殺で失われています。
また、安曇野市の自殺死亡率は、全国・県と同様に減少していますが、年間16人(H28)が自殺で命を落としています。
2019.8.21 広報あずみの 精神保健福祉士 二宮 美和さん
喉が渇く、上手く唾が飲み込めない。
冷蔵庫から麦茶を取り出して、三口ほど飲む。
冷たい麦茶が食堂を押し広げて胃へ落ちていく感覚を確かめて、落ち着かせる。
自殺者が多いことはずっと前から知っている。
私が学生の頃は年間3万人と記憶しているから、上記の通りに確実に減少している。
対人恐怖症は国民病と言われるほどに他人の動向に気を遣う国民性があるだろうな、と考えていた。
しかし、自殺者は私にとって他人事であった。
それは東京のような大都市や、閉鎖的な村だけの話だろうと考えていたのかもしれない。
少なくとも、自分とは無縁な気がしていた。
私が生まれ育った、この安曇野市で16人が自らの命を絶っている。
その事実にかなりの衝撃を受けた。
2ページ目のグラフには、少ない年には11人、多い年には28人、平均すると20人前後だろうか、毎年のように自殺者が出ていることを示していた。
編集後記の下に安曇野市の現在の人口が書いてあった。
2019年8月時点で97610人、この安曇野市に住んでいる。
平均して20人とすると、全体の0.02%となる。
1万人がいたら2人は自殺している、そういうことなのだ。
この数字をやはり自分とは関係ない人と考えるか、もしかしたら自分と関係ある人がいるかもしれないと考えるかは人それぞれだろう。
この土地で、一人で抱え、潰れてしまった人が1万人に2人いる事実に戦慄する。
感度の問題、なのかもしれない。
私はそこまで人に興味を持っている訳ではない。
もしかしたら私の横を素通りした人もいたのかもしれない、と考えると吐き気を催す。
つい最近、人間の存在意義について軽く書いた。
自身の存在意義をすっかり見失ってしまった、或いは埋もれ隠れてしまった人が多いのかもしれない。
存在意義について分からないても生きていけるが、存在意義を考えることは死からある程度の距離を測れるだろう。
「人間の存在意義」について、私はもう少し掘り下げなければならない、と感じる。
私の場合は私の自意識の追求のためだが、私から発信できる何かがあるかもしれない。
この問題を「人間の存在意義における感度の問題」と銘打って、考えることにする。
まだ思考していないが、カテゴリーは「私」の追求に振り分けておこう。
有り難いことに、幾つかの本の情報の提供がある。
数ページめくって、脳の溝の隙間に詰め込むことを少ししよう。
結句、自分のために考える。
だが、「結句、自分のために考える」ことをして良いはずだ。
タイトルも長ったらしくするが、大事なことは詰め込むべきだろう。
安曇野市全体で自殺者が毎年0.02%いる事実に対して、人間の存在意義における感度の問題として思考しようと決めた。
今年後半、重たいテーマだが、由々しく臨む。
このテーマで記事を書いて、投稿するのはずっと先になるだろうが、決めたので書く。
結句、自分のために考える、それで良いはずだ。