次の脚本、自分が書くつもりでいる。
しかし、どうも副主宰は次も自分が書くつもりらしい。
何ということだ!私は脚本を書きたいのにっ!
ふと、これからも副主宰が脚本を書いていった場合、どうなるのか?
正味、私が劇団に居る意味がないのだ。
「脚本を書く」、そのことに軸足を置いていたので、気付いた時には動揺した。
今の脚本は副主宰がせっせと書いた。
大道具も照明も音響も衣装も宣伝も制作も一応は賄えている。
私がスッと居なくなっても、問題ない。
帰り道、困り果てた。
「脚本を書く」ということに劇団における「私の在り方」を全乗せしていたので、そこが抜けると「一体、何で居るの?」という自己猜疑に陥った。
私の中で「脚本を書く」以外の、劇団における在り方がないのだ。
劇団ぱすてるは、主にぴかぴか芝居塾出身者で構成されている。
しかし、私はぴかぴか芝居塾出身ではない。
この点からも私の立ち位置がおかしいのだ。
そも、演劇における、私の在り方が全くない。
何せ、飲み会のノリで始めたことなので、ハッキリとした目的も目標もない。
演劇を通した「私の在り方」がないことが問題なのだ。
私は、劇団における「私の在り方」を再定義する必要がある。
どうして私は劇団ぱすてるに居るのか?
何故、私は演劇という表現を選んだのか?
漠然と、物語の先が見たい、と考えているが、「物語の先」とは一体何なのか?
私なりの答えを出さなければならない。
目の前のことをまず片付けながら、常に「面白いとは何か?」を問い続けなければならない。
「私の売り」についても考えなければならないし、「私の在り方」についても考えなければならない。
木っ端微塵に爆散した木片の欠片や小石が脳の隙間にぶっ刺さるような刺激が足りない。
答えを探して、答えを探して、焼け野原を歩く。
「私の脚本はクソ」という事実と向き合わないといけない。
何でクソなのかは、分からない。
何が面白いのかも、分かっていないから。
死にたい、と唱えるのは幾何度目か。
つまりは平常運転、いつも通りの私だ。
さあ、頭蓋骨の隙間から血を吹き出しながら、歩こうか。
ちまちまとやれることをやっていく。