「私の売り」について、私の脳内で喧々諤々な議論が巻き起こっている。
私の脚本はどうしてクソ詰まらないのか?
その答えを探している、そういう詰まらない記事だ。
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目次
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1、伝わらなければ「クソ詰まらない」事実に震える。
私は「面白い」と考えて書いた。
現時点でも「面白い」と考えている。
今から板に乗せても、十分に「面白い」と言える自信はある。
しかし、ネオンホールの脚本コンペティション・プレゼン大会(以下、脚本プレゼン)では負けた。
相手の策略と私自身の消極的態度が原因にあるのは間違いないが、それでも「面白い」のであれば、選ばれていたはずだ。
選ばれなかったということは、結果として、「クソ詰まらなかった」となる。
上の事実は実に恐ろしいことを述べている。
脚本プレゼンの時点で、私の出した脚本5本とは別に、外部から1本の脚本が送られてきたのだ。
劇団立ち上げのためのお祝いとしての意味合いが強い反面、この脚本も脚本プレゼンでは棄却された。
口を揃えて「面白い」と言っていたのにも関わらず、そっと棄却された。
私の上記の主張の筋を通してしまうと、外部の脚本も「クソ詰まらない」から選ばれなかったことになってしまう。
しかし、それも事実だろう、と苦虫を噛み締める。
実力が伴わないとか、今回は身内でやりたいとか、それらしい理由は幾つもある。
しかし、それらしい理由を上回る「面白い」があれば、今回の演劇の題目になったはずだ。
選ばなかったというのは、そうした無意識の選別もある、とあえて言い切る。
さて、ではどうして「クソ詰まらない」結果になってしまったのか。
外部の脚本についても、私の脚本についても、至る答えは同じだろう。
つまり、「色々と書いてあるけど、つまりはどういうこと?」という「面白さ」が伝わっていないからだ。
外部の脚本と私の脚本では、スタンスも脚本プレゼンにおける状況も違うので「何故、伝わらなかったのか?」の原因は別物になる。
しかし、至る答えは脚本プレゼンの相手が「面白い」と感じなかった、伝わっていないからである。
如何にして「面白い」と感じさせ、伝わるようにするかが課題である。
2、私の脚本は「素材のまま」
私の脚本が「クソ詰まらない」のは、劇団ぱすてるの副主宰曰く「素材をそのまま出しているだけ」とのことだ。
私は脚本としてある程度の完成を出しているので「素材のまま」と言われるとピンと来ない部分はあるが、分析屋の副主宰が言うからには一定の真理があるのだろう。
泥のついた大根を出すのではなく、ちゃんと洗って切って調理した大根を出せ、ということだ。
しかし、具体するとどういうことだろうか?
やりとりしてみると、どうも副主宰の中の「面白い」と私の「面白い」は違うことに気付いた。
そこら辺を踏まえて、考えた。
私の脚本の「面白い」部分は、キャラクターありきだろう。
まつもと演劇祭で一番最初のプロットがウケていたのも、「左にしか曲がれない左近寺」、「左近寺のストーカーで警察の須藤」、「1度に5文字しか喋れない&「ですます」で笑っちゃう女子高生たち」などのキャラクターたちだ。
私の脚本の書き方もそのキャラクターたちの会話を転がして、設定や世界観も構築していく。
副主宰の「面白い」は、どうも山場を求めているようだ。
「クライマックス」、「共感の焦点」といったもので、そこまでにいくための仕掛けが「面白い」と感じているようだ。
ロジカルで組み立てられた面白さ、確かに伝えるという点で言えば強いだろう。
そう言えば、副主宰は私の脚本に「山場がない」と言っていたな。
あと、「オチがない」とも言っていた。
まつもと演劇祭の脚本では、「テーマがない=意味がない」とも言っていた。
つまり、私の脚本は「ヤオイ本」となる。
ヤオイの語源は「山なし、オチなし、意味なし」から来ている。
そして、カップリング、つまり、キャラクターありきで作られている。
そうか、私の脚本はヤオイ本か…
そうなると、BL漫画を研究した方が早いだろうか?
それとも「萌え」について考えた方が早いだろうか?
「伝える」ことを目指すなら、やはり山場を作ること意識しよう。
テーマについては脚本を作っている中で、見付けて行く方式でいく。
多少でも「面白い」が伝わるように努力する。
3、物がなければ、評価もされない。
これから、私の為すべきことは、「私の売り」の仕掛け作りだ。
そのために私がすべきことは…なんだろうか?
上記のことを踏まえて、山場の意識作りからだろうが、「山場とは何か?」の私の中の定義ができていない。
何をもってして「山場」と言えるのか?
思考はまだしなくてはならない。
「山場」の意味を探る、が今私のできることだろう。
それとは別に、脚本はこれからも書いていく。
頭の出来が悪いから、全部の答えを出してからでは遅過ぎる。
「クソ詰まらない」脚本であっても、書かないよりは絶対にマシだ。
評価するに値しない、という技術の話ではない。
評価するのに物がなければできない、という現実論だ。
「クソ詰まらない」と評価されるのも、評価される物があってこそだ。
評価されれば、どうすれば良いか考えられる。
「クソ詰まらない」脚本でも、書いた方が良い。
書かなければ、鈍ってゆくだけだ。
4、終わりに。
ずらずらと色々と考えた。
一先ず、ここで一区切りとする。
一言でまとめるならば。
私の脚本は「ヤオイ本」だ。
このタイトルだと誤解を生みそうだ。
しかし、この誤解さえ伝えられない私の「クソ詰まらなさ」を表現している。
この誤解を誰かに評価される日を待ち望む。