自殺を取っ掛かりに考える。
Facebookで自殺に対しての意見を求める投稿があった。
十中八九、求められているコメントではないと考えながら、私見を綴った。
ふと、当ブログでも書いてしまおうと、コピペしてきた。
私は自殺容認の立場だ。
まず自殺することが「救い」であったり、「決意表明」であったり、様々なケースがある。
自殺する理由は人それぞれ違うので、「居場所がないから」、「味方がいないから」と一概にくくれない。
自殺についての是非を問う時、大抵は「本当は自殺したくなかった」という方を対象にしているだろう。
しかし、「本当は自殺したくなかった」という方に「自殺をするなよ」と私は言えない。
「自殺」という選択をし、準備をし、その間にも葛藤し、それでも「自殺」をしようとした人に、「自殺するなよ」と言う言葉が私は薄っぺらく感じてしまうからだ。
私はその人ではないので、「辛かったよね」、「大丈夫だよ」も同様に薄っぺらくなってしまう。
生きづらいから死のうとしているのに、「生きろ」と言うのも場違いな気がしてならない。
また「自殺は他殺」ではなく、「自殺は自殺」であると明言する。
周りの環境、人間関係、大小ある悩み、それらの遠因近因が「他殺」であるとするならば、「自殺」をしたのは「社会」が悪いからとなる。
しかし、その「社会」の中で同じような環境で、さまざまな人間関係で、大小ある悩みを抱えて生きている人もいる。
どのような言い分であったとしても、「自ずから死のう」と決めたのであれば、それは「自殺」だ。
その人が悩んで決めた、選択なのだ。
だから、故に、私は自殺を容認する。
その人が選んだ選択を全力で支持する。
「自殺をしても良い、それはあなたの自由だから」と。
無責任かもしれない。
しかし、赤の他人である私にできることなど高が知れている。
だから、ただひたすらに認める、「自殺」しても良いと。
身体が滅んでも、心が救われればそれで良い。
「自殺」をすると「家族が辛くなる」と言う人がいる。
家族を辛くさせては何故いけないのか?
「家族」だから?
「自殺」をしようと決めた人の胸に響くだろうか、私には分からない。
そも、「家族」が原因で自殺するかもしれない。
「家族」という言葉が引き金になるかもしれない。
何も知らずに言葉をかけられない。
それとは別に、「家族」を思い出して生きようと考えるかもしれない。
「家族」の存在が思い止まることになるかもしれない。
しかし、思い出す時に辛くなってしまうかもしれない。
いずれにしても、「家族を辛くさせないで」は自殺をしようとする人の話を聞いてからでなければならない。
でなければ、自殺をしようとした人の気持ちを封殺することになる。
分かり合えない、そうした観念から分かり合おうとしないと、「家族を辛くさせないで」は呪いになる。
寄り添うようで、突き放しているかもしれない、そうした怖さを私は危惧する。
次いでにいうと、私が例えば「自殺」するとして、別に家族が苦しんでも構わない。
苦しみは私の家族の問題で、私の問題ではないからだ。
こう書くと人間性が破綻しているのが露呈するが、私の問題と家族の問題は別なので、こう書かざる得ない。
私の問題をすり替えてはいけないのだ。
私にとってすり替えてしまうことの方が問題なのだ。
私の問題である、その私の問題を家族に押し付けてもいけない、とも考える。
一言でまとめるならば。
自殺しても良い、心が救われるのであれば。
以上が私見となる。