明日も明後日、仕事がある。
それは幸せなことかもしれない。
しかし、私は働くことに向いていない。
私の作業ラインで良く組む人Yaさんが指摘してきた。
他の人がやっている作業を私が抜かしているからだ。
しかし、私はきちんと作業を抜かしている理由はあるし、問題ないと考えていた。
私が問題ないことを伝えても、Yaさんは「他の人はやっている!」と再三伝えてくる。
確かに他の人をしていることをやらないのはサボっているとも言える。
しかし、無能な私が業務を滞らせないためにも必要な省略、効率化できる部分であり、おいそれと相手の言い分を聞く訳にはいかない。
Yaさんは私がうんと頷かないのが気に入らないのか、段々と苛立ってきた。
Yaさんは上の人間に伝える、と言ったので、私は「はい、伝えてもらって良いですよ」を了承した。
Yaさんは「そうじゃないでしょ?!」と怒る、私が「それは困る」と言うとでも考えたのかもしれない。
我慢の限界に来たのか、Yaさんは私に私の評判について言い始めた。
Yaさんは「あなたは仕事ができないと言われているよ!」と言ってきたのだ。
それに対して私は「それはそうでしょうね」とするりと相槌ちを打つと、遂にYaさんは発狂した。
「見返そうとは思わないの!」というYaさんだが、「そういう気持ちになれない」としれっと私は言う。
火に油を注ぐ、激高するYaさんを尻目に作業を再開する。
Yaさんが言っていることは間違っていないが、Yaさんの言うようにはなれない。
何もそう言い返さなくても良かったのではないか、というのが客観的な意見かもしれない。
しかし、この「見返そう、やる気を出す」という点において、私は変わらない。
20代前半は「やる気が出ない」ことについて、堂々巡りを繰り返して悩みに悩んでいた。
その「やる気が出ない」という問題は、根深く、決して変わらないことを悟ったのは20代後半の頃だ。
私が最も嫌いな部分は絶対に変わらない、梃子でも動かない、だから諦める他ない。
Yaさんの怒りはごもっともだが、こればかりは諦めてもらうしかないのだ。
仮に、「分かりました!やる気を出します!」と答えたとしよう。
しかし、実際は全くやる気を出さずに作業をすることになる。
となれば、「やる気になっていないじゃないか!?」と結句なるのは目に見えている。
ならば、最初から「これ以上は私にはできない」と伝えることが良いことだ。
私が無能であることを認めて、諦めてもらった方が良い。
もし問題があれば、上から指示があるだろうし、何かしらの判断もしてくれる。
この件でクビになったとしても、仕方ないとさえ考える。
それくらいに、どうしようもなく「やる気を出す」ことができない。
Yaさんが激高するのは私には分からないが、同時に、多少の申し訳ない気持ちもある。
向上心、私に縁遠い事柄の一つだ。
無い訳ではない、何か始める時には恐らく有る。
しかし、継続していく中で頭打ちするものなのだ、私にとっての向上心というのは。
仕事ができない、この評判は、仕事とは向上心が必要なことを指しているのかもしれない。
向上心がなければ仕事にならないのであれば、私は働くことに向いてないと言わざる得ない。
嗚呼、向上心、私だって欲した時期はあったのだ。
無能が無能の由縁をひしひしと感じた出来事であった。
それでいて、胸は全く痛まない。
歳を取ることに鈍くなる何かしらの怒りへの耐性は、喜ぶべきことか悲しむべきことか、私は判断しかねる。
明日も明後日、仕事がある。
それは幸せなことかもしれない。
しかし、誰かをまた怒らせる、そうした仕事に辟易してしまうのも事実だ。
悩む、とは違う、嫌な事実の積み重ねだ。
ただただ辟易する、憂鬱になる、嫌な事実だ。
早く、働くということから解放されたい、堕落一途な私はそんな未来を恋い焦がれている。